掲載日 : [2005-12-21] 照会数 : 13861
<能楽>能楽と韓半島のつながり≪下≫
[ 能楽「翁」の面 ]
遠祖をしのぶ「翁」
秦一族がくっきり
韓半島に源を持つ各種楽舞を始祖とする日本の能楽を考えるとき、5世紀ごろ新羅から渡来した氏族である秦氏との関連をさらに注目したい。宮中や有力寺社に伝えられている雅楽の楽人に秦氏一族が多いことも背景にあるからだ。
宮内庁の楽士はつい最近まで世襲だったが、古事記の編纂者として知られる太安麻呂(おおのやすまろ)の子孫である多(おおの)氏一族とともに、秦氏系氏族が大勢活躍している。例えば、いま雅楽師の第一人者として活躍中の東儀秀樹さん(46)は秦河勝の四男または六男が祖先とされ、林氏(『君が代』の作曲者の林広守など)は河勝の四男の子孫とされている。
また、秦氏の氏神である京都伏見の稲荷大社には、雅楽の一つ人長舞『韓神』が独自に伝えられている(それは宮中にも伝わり、現在でも行われている)。このように秦氏一族は各分野の楽舞と広くかかわっていた。一方で、今年10月15日に韓国金海市で上演された能楽「翁」も、秦氏とその原郷とされる韓半島を強く意識したものである。
仮面劇と重なる面
能楽の祖・世阿弥が15世紀前半に著した『風姿花伝』によると、平安時代、村上天皇が国穏やかに民静かになること、そして自分の長寿をも願い、秦河勝の子孫・秦氏安に66種の猿楽を紫宸殿で催すようにと命じた。
氏安は一日で66種とは多すぎるので、3つの代表曲を選んだ。それが「翁」(式三番)の起源であるとしている。曲の初めに「とうとうたりらたらりら」と意味不明の「異国の言葉」を謡う。 この異国こそ秦氏の原郷のことであり、それを聴衆に暗示させている。さらに、新羅明神(滋賀県・三井寺に隣接)や赤山明神(京都・比叡山の山麓)などの韓半島ゆかりの神々も登場する。秦氏安は「翁」を通して、遠祖の原郷をはるかに望んだのかもしれない。
そのほか、翁の「面」自体が、韓半島の仮面劇で使用される老人や両班の面に酷似していることなども興味深い。ただし、現在の韓半島の仮面劇は、雅楽のように古代の形式をあまり留めていない。半島各地の仮面劇の面は、主に朝鮮朝以降の形式だとされている。だとすれば能楽には、中世以降の韓日文化交流の影響もあるかもしれない。
朝鮮朝成立と室町時代の始まりはほとんど同時期だが、室町時代初期に博多や堺などに、朝鮮朝に迫害された僧侶など高麗の遺民が多数渡来していたという事実がある。彼らが「茶の湯」などの室町文化の原型を作ったという説もあり、能や狂言も、半島からの新しい遺伝子を受け入れた可能性も考えられる。
朝鮮通信使の感激
江戸時代、新井白石が朝鮮通信使の饗応係であったとき、彼は一行歓迎の楽舞を、それまでの武家の楽舞としての能楽に変えて、宮中雅楽の「高麗舞」に変えた。それを見た朝鮮通信使の面々は、自国では姿を消した古代朝鮮の楽舞が日本にそのまま伝えられていることに驚嘆し感激したという。
しかし、白石は能楽を催していてもよかったのだ。秦氏の出自、その子孫を自称する世阿弥や金春禅竹の思い、そして「翁」の上演。それらの由来を使節に説明しても、彼らは同様に驚嘆したことだろう。
(2005.12.21 民団新聞)