掲載日 : [2006-01-01] 照会数 : 6962
<座談会>いま聞きたいオモニが歩んだ道
[ 1951年当時の3人。(左から)姜福順さん、李外順さん、朴福南さん ]
激動の中 生き抜いた絆…命の輝き写した1葉を前に
この紙面中央の写真は、過去3回「民団フェスティバル」の写真展に登場したものだ。花もはじらう18歳の在日女性3人が、少しすまし顔で収まっている。戦時中に幼少時代を送った彼女たちは戦火の中を生き抜き、10代の若さで嫁いだ後は別々の所で人生を送ってきたが、実の姉妹のように仲良く友情を温めてきた。2年に一度は再会し、1週間近くを一緒に過ごすという幼なじみが見た民団、同胞社会の60年とは何だったのか。
子どもの幸せが第一だった 民団を支えたのは私たち女
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【出自と子ども時代】
司会 この写真はいつ頃写されたものですか。
姜 最初の子どもがお腹にいる頃だから1951年だと思う。つわりがひどくて実家に里帰りした時に、二人を誘って会った。誰からともなく写真を撮ろうということになったんだよね。
李 近くの写真館に行き、そこでチマチョゴリに着替えて写したんよね。みんな18歳だった。
朴 まだ誰も子どもがいなかったしねぇ。去年2月の民団の写真展で一番目立っていた。みんな若くていい女だよ。この写真が陽の目を見たのは、私のおかげだよ。
李 私の家が火事で焼けて、写真も全部なくなったのを、あんたが複製してくれて、それを民団に送ったら写真展に採用されたんよね。
司会 小さい頃の暮らしぶりや思い出は。
李 育ったのは宇部の助田町。向こう3軒両隣、長屋のような所で一緒に大きくなった。2人は宇部で生まれたけど、私は韓国で生まれ、生後3週間で日本に来た。産後のひだちが悪い、行くなと祖母が船着場ですごく泣いたらしい。船の中では咳きが止まらず、血を吐いたという。「死にゃー死んでもええ」と思っていた母は後になって「よう生きた。あの時、あんまり泣いたから声がよくなって、歌もうまくなった」と言っていた。
子だくさんで 大変だった父
姜 父は「トンジェンイ中島」と呼ばれ、木の桶に入れた人糞を衛生専用のトラックの荷台に運ぶ仕事をしていたという。私は8人兄弟の5番目で長女。男兄弟はみんな死んでしまった。
朴 うちの父はコンクリートのハツリをしていた。私も8人兄弟で3番目、長女。うちも男の兄弟はみんな死に、残ったのは姉妹だけよ。
李 うちも双子の2人が死んで8人になった。私が2番目で長女。みんな長女じゃね。練炭工場で働いていた父は左手の指を機械にはさまれて切断し、あまりの痛さに一晩中海岸で泣いたという。両親は子どもたちを養うために必死だった。
姜 「産めや増やせよ」の時代だったねぇ。
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【戦争体験と解放】
司会 戦争中は苦労されたでしょう?
姜 小学校2年生の時に戦争がものすごくひどくなった。空襲警報が鳴っているのに、家の前に掘られた防空庫の中でアボジは近所の同胞とばくちをしていた。それを見た母は「ミッチンノム」とものすごく怒っていた。空襲警報は子ども心にもとても怖かった。疎開先では開墾なんかさせられて、もう学校に行きたくなくなった。3年で学校生活は終わった。
李 協和発酵を油化と言い、そこでは爆弾の材料をつくっていた。
疎開先も空襲 怖かった思い
朴 だから集中して爆撃に狙われた。疎開先では食べる物がない時代だったが、同胞が大きな鍋一杯に牛の頭のスープをくれた。ところが、爆撃のどさくさでその鍋がひっくり返るということもあった。そのうち、アメリカ人がジープに乗り、「ハローハロー」と言いながら疎開先にやって来た。背も高い、鼻も高い。その姿が怖かった。
李 油化が爆撃されるのを見て、怖くなって鍋倉山の防空庫に逃げた。空からビラが舞い落ちるのを見た。「降伏しなさい。日本は負けます」と書いてあった。
司会 6年生で解放を迎えました。その時何を思いましたか。
朴 ラジオでか細い天皇の声を聞いた。何カ月かして、「日本にいたらウェノム・ハンテ・マジャチュギンダ」、みんな日本人に殺されるといううわさで大騒ぎになった。家財道具をみんな家の前に出して、国に帰るつもりだったのに、先に帰った人の船が沈没したと聞かされ、帰るに帰れなくなった。
姜 お昼の12時頃、配給をもらいに行った米屋でラジオを聞いた。敗戦という意味もわからなかった。ただまわりの大人が泣いて悲しんでいたから、まぁこんなものかなと思ったくらい。
帰国めぐって 両親が論争も
李 兄とヤミ米やかぼちゃを買出しに出かけ時の電車の中で放送を聞いた記憶がある。まわりの同胞はみんな一斉に帰ると言っていた。母は帰ると言って半狂乱になり、韓国の田舎に荷物を送った。だけど、父が断固反対した。「韓国に帰っても何もない。帰るならおまえ一人で帰れ」と。
朴 そう言えば、あんたんとこは、ようもめようたね。うちはイモ(叔母)たちが先に帰った。
姜 解放後、何年かして帰ろうということになった。売るものは売り、持っていくものを整理したけど、結局は残った。帰る帰ると言っていたけど、近所の同胞は帰っていないよね。
朴 私は帰るのはいやだった。勉強したかったから。うちの兄弟はみんな学校に行ったのに、私だけ家の犠牲になって3年までしか行けなかった。母が死んだからよ。長兄が19歳の時に、母にまた子どもができた。母は嫌で堕そうとした。まわりの者が山ブキを飲んだら流産できると、いらんことを吹き込んだ。それを飲んだら、お腹の子が死んで腐ってしまい、なかなか取り出せなくなった。それが元で母は腹膜炎で死んだ。
姜 かわいそうなことしたねぇ。
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【結婚から今日まで】
司会 戦火の中を生きのび、その後、みなさん10代で結婚ですね。
朴 親が決めてきた相手と17歳で結婚した。夫は典型的な1世で、8歳の時に男の子が生まれないという在日の親戚にもらわれてきた。来たくないのに来させられたという恨みをずっと抱えた人だった。酒が大好きで、酔っ払ってはしょっちゅう暴力を振るった。子どもには手を出さなかったが、子どもたちは暴力を見て育った。
建設現場の工事を請けて、飯場を動かしていた。多い時には100人くらい使っていた。金回りはよかったので、子どもたちがほしがる物は何でも買って与えた。それなのに「親父は何でも金で解決しようとする。本当の愛情がほしい」と子どもたちには嫌われていた。
主人と息子が会話をしないと仕事にはならないのに、長男が22歳の頃まで親子の会話がなく、私を通して会話をしていた。「俺は天涯孤独」だとしょっちゅう言っていた。それでも主人が亡くなると、子どもたちは涙を流していた。
酒飲みの男の 嫁にはならぬ
姜 私は18歳で門司に嫁ぎ、7年くらい暮らして小野田に戻った。相手は当時としては珍しく、本名で国鉄に勤めていた。3歳の時に日本に来た1世。暴力とか一切ない人で、みんなから好かれていた。そういう相手だったから、私はあんたに暴力を振るうだんなさんが憎らしかった。うちらは友人でしょう。助けたいわけよ。よくあんな所に嫁に行き、耐えているなと。
私の父も兄も酒を飲んでは暴力を振るっていた。だから、酒飲みの男のところには絶対嫁に行きたくないと子どもの時から思っていた。両親と兄が話を決めた。正直者だからお金もうけは下手。だけど、私さまさまで、私しかない人。子どもより私を大切にしてくれた。
朴 私は二人の家庭がすごくうらやましかった。あんたは何の苦労もなかったじゃろう。
民団の支部が 同胞集う場に
李 そんなわけないよね。18歳の時に、クリスチャンの母が同じ信仰をもつ人に嫁がせた。嫁ぎ先は大分県の豊後高田だった。長男が赤ちゃんの頃、スクラップを回収して問屋に卸す仕事をしていた主人が、盗品を扱ったという理由で警察に捕まり、1カ月も拘束されたことがある。右も左もわからない九州の田舎でどれだけ不安だったか。
当時、パチンコで名をあげた同胞が国選弁護士を雇ってくれて助けてくれたり、民団豊後高田支部が結成されて同胞の集まる場ができたのは支えになった。それから64年頃に主人が三輪トラックを運転中に無人踏切で蒸気機関車と衝突するという大事故を起こした。幸い、一命はとりとめたけどね。それが辛かったことじゃね。
司会 17歳の時に韓国戦争、26歳の時に「北送事業」が始まりました。当時の思い出は。
李 解放後、韓国語を習うために夜学に行きたいと言ったら、両親が「あそこは朝連系だから行くな」と言われて断念した。その後、52年5月に「万来町事件」が起きたんよ。朝連系(朝鮮人解放救援会山口県本部)と警察が衝突し、同胞らは警官に人糞を撒き散らした。警察は暁の急襲をしたり、関係者の家をしらみつぶしにして、朝鮮人団体のつぶしにかかった。
朴 大人たちが、用意していた石を投げろーと叫んだけど、怖くなって逃げ帰ったよ。
姜 アボジが総連の分会長を長くやっていた。総連の指示には無条件に従う人で、北朝鮮に帰ることを決めた。私と主人も帰るつもりで、役場に行き、外国人登録に「帰国」のはんこを押した。3カ月後に帰る日も決まったが、2カ月くらいたって考えが変わった。
私の両親が帰るからといって、だんなの実家は日本にあるのに、嫁の分際でだんなの実家と縁を切っていいのか。父は私の3人目のまだ3歳の子どもを連れて行くと言い張った。そうすれば、一緒に帰ると思ったんでしょう。母が「南朝鮮から来て、家族・親族がバラバラになったのに、これ以上引き裂くのか」と父に言って聞かせた。結局、両親と妹が62年に帰って行った。
朴 北朝鮮から連絡はあるの?
姜 両親はすでに亡くなっているけど、妹からは4、5年前まで半年に一度手紙が来ていた。内容はいつも金の無心だった。向こうで結婚し、「一度来てくれ」と電話もかかってきたが、私の生活もそう楽ではないし、結局行けなかった。それが元で、妹家族は北朝鮮の寒さが一番厳しい北部に飛ばされたんだろう。それを思うと今でも胸が張り裂けるよ。
朴 日本の身内が行くと、ハクがつくっていうじゃない。みんな援助をもらおうと必死なんよ。
姜 息子が結婚するからと言うので、北に行く人に10万円をことづけた。「少ないけど、これが最初で最後。これ以上のことはもうできない」とはっきり伝えてくれと念を押した。
李 ちゃんと妹に渡ったんかね。
姜 信用できる人に渡したし、お金を詰めたセカンドバッグを抱えた証拠写真もあるから大丈夫だよ。
北側へ渡った 身内から無心
朴 40年ほど前に長兄が名古屋で事故死して賠償金が500万くらい下りて、日本にいれば労災も出ていた。なのに、あれだけ止めたのに、長男の嫁は自分の親が帰ったから帰って行った。それからずっと「あれ送れ、これ送れ」の手紙が来るようになった。
司会 これまでいろんなご苦労がありました。最後に振り返って一言。
朴 尼崎に移ってから3年間、ボランティアで支部の団費集金係をしたことがある。婦人会の研修にも参加した。日本で生まれずっと生活してきたけど、やっぱり同胞の団体があるというのは精神的に安心するよね。
姜 うちはずっと総連だったが、イヤなことがあって茨城に移ってからは民団に所属するようになった。やっぱり在日同士集まる場がないと淋しいね。
李 婦人会支部の副会長を務めたこともあるけど、民団の後ろだてがあるから、日本人の前に出ても韓国人の誇りを失うことがないんじゃないの。そういう民団を影で支えてきたのは、女たちだったというのもこの際言っておきたいね。
朴 12歳で母を亡くし、ずっと苦労してきたから子どもにはみじめな思いをさせたくない一心で今日まで歯を食いしばってきた。今はこうして幼なじみと再会ができるようになって、第二の青春のようだね。1枚の写真がきっかけで、民団の座談会に出ることができるなんて夢にも思わなかった。
李 ほんとに感謝したい。生まれてすぐ死ぬと思われていたのに、この歳まで生きることができたのも神様の祝福でしょう。この3人で会えるのが何より楽しいね。
姜 主人の体調が思わしくない今が一番辛い。だけど、この2人がわたしの家で1週間近くもゆっくりできたのも主人の理解のおかげだった。今も昔と同じように実の姉妹よりも仲良くできることが幸せだね。
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【出席者】
姜福順さん(1933年4月、山口県宇部市生まれ。茨城県筑西市在住)
朴福南さん(1933年8月、山口県宇部市生まれ。兵庫県伊丹市在住)
李外順さん(1933年12月、韓国慶南星州郡伽泉面生まれ。宇部市在住)
司会・哲恩(民団新聞編集長)
(2006.1.1 民団新聞)