掲載日 : [2006-01-01] 照会数 : 9177
60年前の混乱期−民団結成前夜を追う 第2部
[ 民団第3回定期全体大会(1947年10月1、2日)後の開天節記念民衆大会で撮影=47年10月3日、大阪・中之島公会堂 ]
建同・建青がスクラム
新たな日本隷属阻止…生活者団体へ画期的決断
民団の母体となる建同(新朝鮮建設同盟)は、1946年1月20日の結成大会の宣言で、「朝連の民族解放を忘却した信託統治支持の態度はまことに遺憾である。われわれはあくまでも自主自立の祖国完全独立のために、新朝鮮の建設をめざし、隣邦諸民族と協同して、ここにその先駆とならん」との決意を表明、次の綱領を定めた。
一、勤労大衆の自由を獲得し、民主主義体制の確立を期す
二、社会主義(計画)経済を確立し、国民生活の安定と向上を期す
三、世界恒久平和のために国際協調を期す
信託統治反対を柱に、新しい国づくりの大綱を提示し、それに参画する決意を表明したものだ。在日同胞問題については、8本の行動綱領の6本目に、「われらは在日同胞の現実的諸問題を敏捷に解決する」と掲げている。一足早く結成された建青も同様で、「青年同志を幅広く糾合し、完全な自由独立国である新朝鮮建設を目標に、理論の研究と実践活動を展開」(結成趣旨文)することを全面に出し、5項目の綱領の4番目に「在日同胞の民生安定を期す」と触れている。
祖国帰還者の逆流が始まる
当然ながら、あくまで早期帰国を前提とした活動姿勢であった。前述のように、解放直後ほどではないとしても、46年だけで8万人以上が帰国しているのだ。しかし、変化は確実に訪れていた。日本当局に「不法入国」として逮捕された同胞は、46年だけでも1万7733人に達した。実際の「不法入国」者数はそれをはるかに上回ったはずである。解放・独立の熱気のなか、建国ムードに乗り遅れまいと帰国したものの、祖国はすでに生活手段を見い出せる状況にはなく、政治的混乱が広がるばかりだった。日本への逆流現象が始まっていたのだ。
GHQは同年2月、日本政府に帰国希望者登録を実施するよう命じた。これには51万4千余人の同胞が登録した(3月時点での在日同胞総数は64万人と推定)。いかに多くの同胞が帰国を望んでいたかを示した。しかし、実際に帰国したのは一割強にとどまった。帰りたいが帰れない状態が明確になっていた。
これに追い討ちをかけたのが、姿を見せ始めた東西冷戦を背景に、38度線以北を本籍地とする同胞の帰還を停止させ(3月)、すべての帰還者の財産搬出を厳しくしたGHQの措置(4月)である。これは、韓半島南北の共産主義勢力封じ込めの一環とされた。本来なら一人でも多くの朝鮮人を追放したい日本政府にとっては、当面の財産減少、輸送経費の増大を防ぐのが目的だった。
韓国の有名な懐メロに『帰国船』(46年。孫露源作詞、李在鎬作曲)がある。「帰ってきたね 帰ってきた 故国山河をめざし どれほど懐かしんだか無窮花の花を どれほど打ち振りたかったか太極旗を カモメよ鳴けなけ 波よ舞え 帰国船の舳先には 希望も大きい」。この思いは急速に冷え込んでいた。46年中には、今日の同胞社会につながる人口基盤がほぼ固まったと言えるだろう。
『リンゴの歌』『かえり船』『悲しき竹笛』『東京の花売り娘』『みかんの花咲く丘』などがヒットし、プロ野球や6大学野球が復活するなど、生活苦のなかにも明るさを見い出そうとしていた日本だが、当時、不足食糧が300万㌧と言われた。新円を発行して旧円の流通を禁止したものの、発行が間に合わず大混乱を生じ、「500円生活(給与は500円までを新円、それ以上は封鎖預金とされた。サラリーマンが耐久生活を自嘲した言葉)」が流行語になっていた。また、全国に林立する闇市の活発な活動と、その取り締まりとがイタチごっこを繰り返していた。
生きんがためヤミや抗争も
同胞たちは日本人のような生産手段を持てるわけもなかった。解放から時間が経つにつれ、日本人と同胞の生活格差は開いていく。
経済構造の底辺からも阻害されていた少なくない同胞たちが、闇市での主食禁制品や統制物資の蜜売買、ドブロク密造、ヒロポン(軍用物資として大量生産された薬品。幻覚剤として闇市などで出回った)売買などにかかわって、したたかに生活の糧を得ていた。同胞たちは、利権をめぐるヤクザとの衝突や治安当局との紛争を繰り返した。これは日本社会に、支配者根性を蘇らせ、露骨な反感を募らせていった。
7月の衆院都市計画委員会で、日本人以外の集団不法行為の徹底取り締まりが論議され、8月の衆院予算委員会では、7月現在の新円発行額のうち相当部分が第3国人の手中にあるが、との質問に、それは認めざるを得ないが、彼らは企業に長期投資する習慣はないから、日本企業が手中にとられることはない、との答弁がなされたように、在日同胞の動きに神経を高ぶらせていた。
「治安の確保に万全/内相、第三国人の取締言明」(「朝日新聞」46年8月18日付)といった見出しなど、「第三国人」という言葉が新聞紙面に踊り始めていた。
マスコミはこぞって反朝鮮人キャンペーンを張った。一例が「朝日新聞」(46年7月13日付)の社説で、「::終戦後の生活ぶりについては率直にいって日本人の感情を不必要に刺戟したものも少なくなかった。たとへば一部のものが闇市場に根を張り、物資の出廻りや、物価をかく乱したことなどがそれである」と指摘した。
これには、建同の機関紙「新朝鮮」がこう反論している。「闇市の主体は日本人であり、資本も圧倒的に日本人支配であり、物価が攪乱されたとすれば、日本人の行為が主な原因である」「闇市場は戦後資本主義経済構造の破綻の中で生まれた奇形児で朝鮮人が作り出したものではなく、日本人同様、朝鮮人も生きんがための、必要に迫られての経済活動であり故意に日本の経済を攪乱するための行為ではない」。
多くの同胞は、帰国の条件が整うまで、とにかく今日、明日を生きなければならなかったのだ。
誠実で正直な闘士指導部に
建同は8月31日に開いた第2回全体大会で、在日同胞の民生問題に加え、「児童教育問題」を主要議題とする活動方針を討議した。時間の経過とともに、在日同胞の生活問題に比重が移ってきたことを裏付ける。
この大会はまた、民族・右派系を総結集して居留民団組織を結成する問題を提起したものとして重要な位置を占める。建同は続いて9月25日、32団体代表とともに居留民団結成準備委員会を発足させた。一方、建青もこの日、第3回全体大会を開いて民団結成準備委への参加を決めた。3日後の28日には、両団体の全国代議員合同会議を開き、民団創立の諸原則について合意した。
ところで、建同は結成大会で委員長に朴烈、副委員長に李康勲、事務総長に元心昌を選出している。この指導部の特性を見ておかねばならない。
朴烈は1923年の関東大震災直後に、天皇に爆弾を投ずる計画を実行しようとしたとの容疑で逮捕され(いわゆる大逆事件)、死刑にされかかったものの無期となり、獄中生活を生き抜いて45年10月に釈放された。朝鮮近現代史を専攻し、在日同胞問題にも詳しい梶村秀樹は、3人の建同指導者について、79年の講演でこう述べている。
民団結成の中核となり、組織の性格に大きな影響を与えた人物たちのことだけに、長くなるが紹介しておきたい(「梶村秀樹/解放後の在日朝鮮人運動/第五回朝鮮史セミナー夏期特別講座」より)。
「アナキズムそのものではないにしても、たとえば義烈団系(編集部注=1919年に満州吉林省で結成された抗日運動団体。日本官憲に対するテロ・破壊活動を目的とした)などと歩みをともにして、行動的なナショナリストとして、筋を通して生きてきた人たちです。それに加えて、建青に属するような若い学生などが、そのもとに集まるといった形で、この時の民団は形成されたということになります。なお、朴烈という人は、やはり実に個性的な人で、その場その場で思い切った発言をしますし、非常に誠実で正直な人だと思います。
重要なことはそういう朴烈のような徹底的に闘ってきた人を中心にするのでなければ、この時期では、朝連と対抗できる組織はなり立たなかったのだということでしょう。(中略)非転向で筋を通してきており、しかも社会主義者でない人々ということになると、広い意味でのアナキズム系が主なものだったから、おのずから彼らが中心に立つ組織が生まれていくことになったのだといえましょう」
建同と建青は異なった経緯で結成され、理念的にも微妙な違いがあった。しかし、在日同胞を日本の人民解放闘争に隷従させようとする朝連から同胞社会を守ることを最優先に、がっちりとスクラムを組んできた。
両者は46年の3・1独立運動記念式典を日比谷公会堂で共催したのに次いで、8・15解放記念式典では、「自由と平和を希求する人類として、8・15解放記念日はわれわれが永遠に記念する意義深い日であり、われわれの今後の使命は重大であるといわねばならない」との共同宣言を発表した。双方が協同して一体感を高め、組織の拡充に取り組んだ。
46年10月時点では建青が全国に12地方本部であるのに対して、建同は5地方本部に過ぎなかった。民団結成後、建同は発展的に解消し、建青は解散せずに独自性を保ちつつ、理念的にも行動的にも、民団の先鋒的な役割を果たしていく。単独選挙や南北協商問題をめぐって民団と対立するようになっても、一線を画しての協調路線に変化はなかった。
生活と権利の擁護掲げ団結
民団と建青は12月13日、「生活危機突破居留民大会」を共催し、①世界平和のため朝鮮問題を早急に解決し、米ソ両国は国際正義に立脚して朝鮮独立の公約を早く履行せよ②計画輸送が完了した後にも本国との航路を残せ③当然の権利を擁護するためわれわれは団結し、統一された強力な代表機関をもとう、との決議を採択した。
その後民団は、3番目の「統一された強力な代表機関」を追求する方向にシフトしていく。これに対して、1番目を主テーマとする建青では47年3月、38度線以南における国連監視下の単独選挙をめぐって、信託統治反対の立場からこれに賛成する派と、南北協商継続の精神から反対する派との対立が激化し、死者を出す抗争にまで発展した。49年6月の第9回全国大会をもって分裂状態に入り、南北協商派は「在日朝鮮民主同盟」を結成、建青そのものも50年8月の第11回大会で大韓青年団に衣替えする。
民団創立60周年の今年、民団の歴史はさらに発掘・整理され、検証も顕彰もされていくだろう。しかし、民団結成前夜を振り返るとき、民団の先鋒部隊として組織の拡大と防衛に大きな役割を果たし、激動時代を疾走して短い歴史の幕を閉じた建青を忘れてならないことを付言しておくべきだろう。
(2006.1.1 民団新聞)