掲載日 : [2006-01-01] 照会数 : 10901
60年前の混乱期−民団結成前夜を追う 第1部
在留同胞の保護期し力強い胎動
大同団結が破綻した危機を背に
1946年は、左右対立の激化によって幕を開けた。本国で、在日同胞社会で、国づくりをどうするか、自らの進路はどうあるべきか、すさまじい葛藤が繰り広げられていく。在日同胞はそれに加え、生きるために日本社会と闘わねばならず、植民地時代の差別・抑圧政策をそのまま踏襲した日本政府、「解放国民」としてより「敵国人」として扱うケースが増えたGHQ(連合国最高司令官総司令部)とも対峙しなければならなかった。民団はどのような背景から生まれたのか。民団結成前夜の時代状況を追った。
急速に変質した朝連
日本革命へ路線転換…崩壊に瀕した在日共同体
1945年12月28日、米・英・ソの「モスクワ3国外相会議」は、韓半島の信託統治決定を骨子とする「朝鮮に関する議定書」(モスクワ協定)を発表、早期独立の願望を打ち砕いた。反動は大きく、祖国南北のそれぞれの地域で、民族派・右派が反託を唱えれば、左派が賛託を掲げ、46年の新年早々から一気に対立が激化した。
さらに、李承晩グループが6月以降、南だけの単独選挙路線を明確にするのにともない、信託統治問題以上に対立が深刻化する。民族・右派陣営が単独選挙支持派、南北協商・左右合作派に分裂するなど、複雑な様相を呈していく。
300余団体とにかく結集
もちろん、在日同胞社会も本国の政治的激動と無縁ではなかった。後に民団を結成する建同(新朝鮮建設同盟)と建青(朝鮮建国促進青年同盟。45年11月結成)は信託統治反対を叫び、朝連(在日朝鮮人連盟。45年10月結成)は絶対支持を打ち出した。
信託統治に対する朝連の態度表明は、建同よりひと月近く遅い。規模の大きい寄り合い所帯だったために、内部対立の処理に手間取ったからだ。ここで、朝連の特性を確認しておかねばならない。
45年8月15日の解放からわずか3日後、1960年代に民団中央団長となる権逸らが中心になって「在日朝鮮人対策委員会」が、その5日後には朝連の主翼となる「在日朝鮮同胞帰国指導委員会」がそれぞれ東京で組織された。朝連結成までに、すでに活動していた同胞団体は主なものだけでも全国で300余を数えた。これらが思想・信条、主義・主張を超え、結集したのが朝連だ。
日本人が敗戦のショックで右往左往しているときに、日本人が羨むほどの素早い組織力がなぜあったのか。
まだ熱かった帰国への願望
ひとつには、同胞たちが日本の敗戦を早くから見通し、心の準備をしていたことがある。二つには、民族派・親日派、共産主義者・無政府主義者がいて思想・信条は多様でも、多くの同胞が支配者・日本との対決を何よりも優先し、身内意識でまとまりやすい状況があった。
三つには、一挙に噴出した帰国願望があった。四つには、新時代への対応を同胞集団で模索する必要に迫られていた。同胞たちは帰国するまで生き残るべく、身を寄せ合って何が何でも団結しなければならなかったのである。
「朝鮮人飯場では、かなり以前から愛国行進曲ぶしで『見よ東条のハゲアタマ::』といった歌を平気で歌っていたし、また、例えば『日本は調子に乗って風呂敷(戦線)を拡げ過ぎたから戦争に負けるだろう::』という内緒話を交わしているのを聞いたことがある。どうして、どうして、当時、社会の底辺にいた朝鮮人労働者の反日意識は、かくも強烈だった」。
これは44年春から解放の日まで、舞鶴の朝鮮人集落に住んだ崔碩義の著作『在日の原風景‐歴史・文化・人』(明石書店・初版04年10月)にある一文だ。同胞の集まる場では珍しくない現象であったと言えるだろう。
そして日本の敗戦、祖国の解放は、同胞を全国組織に結集させていく。名古屋市にいた鄭煥麒は自著『在日を生きる[増補版]』(育英出版・初版98年11月)で、振り返ればこれが中北地区での朝連結成ではなかったか、という45年10月22日の集会の模様をこう書いている。
「中部六県から会場に立錐の余地がないほど同胞がこの日一堂に会したのであった。(中略)友人同士、知人同士が顔を紅潮させて、それぞれ互いの消息を尋ね合い、共通の友人たちの安否を気づかっては、無事と知って抱き合って喜んだ。(中略)もう友人も知人もなかった。演説の合間には歌が出て、やがてそれは大合唱となり、昨日までまったく知らなかった者同士が、ただ同胞であるというだけで肩を組み合い::」
全国組織結成に向け大同団結する同胞たちの熱気が伝わってくるようだ。その朝連中央は日本共産党系に牛耳られたものの、在日同胞の生命財産の保護、帰国同胞への便宜提供と秩序の確保、新朝鮮建設への参与という、当初の設立趣旨をまだ無視はできなかった。
日本厚生省引揚援護局の統計によれば、45年8月から46年3月までに約130万人が、同年4月から12月までは約8万3000人が故国の土を踏んだ。47年に入って急減するものの、財産の搬出を含む帰国事業の準備・管理・推進のための組織がいかに切実だったか類推できよう。
指導部が共産党系とはいえ、その方針が簡単に行き届かないほど、当初の朝連は雑多な集団だった。崔碩義は前出の著書で、朝連舞鶴支部に集まる人物像をこう記した。
「幹部には禹潭、宮本、牧野、山本、松下(まだ、通名がまかり通っていた)といった土木請負の顔役だった人とか、協和会の幹部が占めていた。(中略)朝連初期には、保安隊が花形で、多聞にもれず舞鶴でも一時、とても威勢がよく、何でも朝鮮で巡査をしていたという中年男が隊長をつとめた」。
建青に結集したリベラルな民族派青年たちは、朝連をその準備段階から共産主義者と旧親日派の野合と批判していたのも当然であった。しかし、それが問題にならないほどに、先にあげた四つの動因が同胞の大同団結を促したのである。
「在日同胞が大同団結して朝連を結成する動きが急となった。『青衛隊(編集部注〓建青の先導役を担った館山の組織)』や青年団体を結成しようとの動きを見せていた人たちは、朝連結成の動きに合流すべきかどうか注視し、その結成大会にも参加した。(中略)共産党系によって指導権が掌握された朝連に失望した青年たちは、即時に建青結成を準備した」(『千葉民団半世紀』)
多くの証言に基づいたこの記述に明らかなように、建青グループは初めから朝連と対決姿勢で臨んだわけではない。大同団結から一転、朝連の指導部を共産主義勢力が握った事実は、同胞社会に衝撃をもたらし、亀裂を走らせた。
そうかと言って、共産主義者が朝連組織全体をスタート時から支配できたわけではない。共産主義者が政治色を鮮明に打ち出すのは46年初頭からで、完全に共産主義者の方針によって運動を展開するのは47年に入ってからだ。
民族利益より階級利益優先
45年12月の日本共産党4回大会で、金天海がナンバー4(ちなみに、後の共産党委員長・宮本顕治より上)の中央委員に選出され、朝連結成の中心人物である金斗鎔が46年2月の5回大会で中央委員候補に選出された。この2人が共産党朝鮮人部の部長、副部長に就任する。金斗鎔は論文を相次いで発表し、これが朝鮮総連結成までの朝連系統の基本運動方針となっていく。
その嚆矢(こうし)となったのが、日本共産党機関誌の『前衛』創刊号(46年2月)に掲載された論文「日本における朝鮮人問題」だ。ここで金斗鎔は、「真に朝連の運動を全国的な、有機的な運動として大衆的な基礎を確立し、その運動の方向を日本の人民解放闘争に結びつけ、」、「われわれ自身及び全日本の人民を圧迫し、搾取してきたところの天皇制を打倒しなければ、われわれ自身の解放はあり得ない」と主張した。
その後の一連の金斗鎔論文は、天皇制廃止と合わせて、日本反動政府打倒に政治目標を絞るようになり、民族問題は階級闘争に従属しなければならず、両者が矛盾するときは階級的利益のために民族的利益を捨てねばならない、と主張するなどエスカレートする。
共産党は46年8月、いわゆる「8月方針」を採択し、在日同胞を日本の人民解放闘争に動員する戦略を貫徹すべく、朝連中央機構の改編・重要ポストへの党員の配置など、具体的な指示を出した。朝連は46年10月の3全大会で、金天海らを顧問に就任させ、翌年1月には朝連日共フラクション中央指導部を組織した。共産党朝鮮人部のこうした動きに対して、反発する勢力もあるにはあったが、少数派に過ぎなかった。
この時期、とくに貴重だった在日同胞の人的・物的資源を実質的には日本の共産主義革命に動員させ、民族的主体性を喪失させるにとどまらず、日本人への新たな隷属を体制化させる危機が迫っていた。混乱期にあって祖国、居住国(GHQ含む)のいずれからの保護も期待できない寄る辺なき民の在日同胞にとって、頼るべきは自らの共同体のほかにはない。そこから来る本然の欲求と大きく乖離した政治闘争に熱を上げれば、共同体そのものが崩壊してしまう。
民団はこのような危機意識の高まりのなかで、産声を上げる。すでに、巨大な全国組織となっていた朝連が覇を唱える大海に、小船で出帆するようなものであった。
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1946年、民団結成までの動き
■在日同胞社会
1・13 在日朝鮮留学生同盟が発足
1・20 新朝鮮建設同盟(建同)結成。委員長・朴烈、副委員長・李康勲、事務総長・元心昌
1・16 GHQ,在日朝鮮人帰国者の再入国禁止を発表
1・31 建同、モスクワ3相会談決議に反対声明
2・4 在日朝鮮人連盟(朝連)、第4回中央委で人民共和国絶対支持を決議
2・17 GHQ、「在日朝鮮人・中国人・北緯35度線以南の鹿児島・沖縄県人は3月18日までに帰還希望与否を登録すること。登録しないものは特権を喪失する」と発表
2・19 朝鮮建国促進青年同盟(建青=45年11月結成)、李奉唱、尹奉吉、白貞基3烈士の追悼会を開催
2・22 朝連青年部、モスクワ3相会議絶対支持を決議
2・24 在日本朝鮮商工会が全国結成大会
2・27 朝連が第2次全体大会。信託統治賛成・反対で激論となり、潜入した建同・建青のメンバー人民裁判を受けるも、乱闘のすえ救出。朝連は建同・建青の粉砕を決議
3・1 建同・建青、3・1独立運動記念行事開催△建青、機関紙「朝鮮新聞」創刊
3・11「滝野川被襲事件」発生。建青城北支部結成大会に朝連青年自衛隊員200余人が乱入
3・16 白頭学院、建国工業学校・建国高等女学校を設立
3・17 朝日新聞、朝連は帰還希望登録に基づいて帰国希望申告を受理し、運輸省の協力により4月15日から計画輸送開始と報道
3・24 朝日新聞、朝連は朝鮮人服役者に再審手続きを促したGHQ覚書を受け、一括処理するので各本部に申請するよう希望と報道
4・13 在日朝鮮人13団体代表、GHQ、日本政府と3者連席会議
4・24 GHQ、朝鮮人の不法行為に関する覚書発表し、「占領目的阻害行為処分令」公布
6・10 朝連、全国10ヵ所で朝鮮民主臨時政府樹立促成人民大会開く
6・12 GHQ、日本政府に不法入国抑制に関する覚書
7・1 建同、機関紙「新朝鮮」発刊
7・4 尹奉吉・李奉昌・白貞基ら殉国烈士7体を本国奉還
7・20 拳銃・日本刀などで武装した朝連青年部約100人、建青川崎本部襲う。神奈川・東京で10与件発生
7・29 GHQ、日本政府に在日朝鮮人に対する課税権許可
8・15 建同・建青、日比谷公会堂で解放1周年記念式典
8・31 建同、全国各府県支部代議員約130人が参加して第1回全体大会
9・1 朝連、日本共産党・中国人団体と共催で「関東大震災中国朝鮮人犠牲者追悼大会」を開く
9・25 居留民団結成準備委員会、32団体代表参加し開催
9・26 朝日新聞、「在留およそ50万といわれる朝鮮人の各種団体が政治、思想的な面を離れ、親睦、融和の見地から大同団結しようと新朝鮮建設同盟の朴烈氏らが中心となって(中略)、『朝鮮人居留民団』を近く結成する、と報道△居住証明制度反対大阪府朝鮮人人民大会開く(中之島公会堂)
9・27 朝日新聞、朝連が民団結成の動きに対し、「在日朝鮮人を分裂させる謀略行動」との見解を発表と報道
9・28 建同・建青、全国代議員合同会議で民団設立の諸原則で合意
10・3 在日本朝鮮居留民団が結成大会。日比谷公会堂に29団体218人の代議員など200余人が参席。宣言・綱領・規約・運動方針を採択し、団長に朴烈氏を選出。旧陸軍大学内の建青本部に本部を設置。建同は発展的に解消、建青は存続
■韓国・日本・世界
1・1 天皇、神格否定する人間宣言
1・2 朝鮮共産党北朝鮮分局その他諸政党がモスクワ協定支持を声明
1・4 GHQ、日本軍国主義者の公職追放および27の超国家団体に解散命令
1・10 第1回国連総会、51カ国参加し開幕
2・1 日本政府、第1次農地改革
2・8 大韓独立促成国民会が発足(李承晩の独立促成中央協議会と金九中心の信託統治反対国民総動員中央委員会が合流。総裁・李承晩、副総裁・金九、金奎植)△北朝鮮臨時人民委員会発足(委員長に金日成)
2・13 GHQ、マッカーサー憲法草案を提示△日本政府に独島・鬱陵島・済州島に対する行政権行使を禁止
2・14 米軍政庁最高諮問機関として南朝鮮民主議院構成(議長・李承晩、副議長・金九、金奎植。議員25人)
2・15 左派陣営の行動統一機関として朝鮮民主主義民族戦線がソウルで発足(議長団に呂運亨・朴憲永・許憲・白南運)
2・17 預貯金を封鎖し新円を発行、旧円を流通禁止にする金融緊急措置令が公布・施行
2・20 ソ連、千島・樺太の領有を正式宣言
3・5 北朝鮮臨時人民委、「土地改革令」を公布(3・31に完了発表)
3・20 ソウルで第1回米ソ共同委員会始まる(5・8決裂)△「池袋東口連鎖市場」が完成、ヤミ市の原型整う。
3・5 チャーチル、ソ連を「鉄のカーテン」と非難
4・10 日本、戦後初の総選挙。女性議員39人誕生
4・17 日本政府、新憲法草案全文を発表
4・27 日本プロ野球が再開(6大学は5月19日)
5・3 極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷
5・15 朝鮮精版社偽札事件の真相発表。共産党が資金調達目的に朝鮮銀行券1300万円を偽造
5・19 25万人が食糧メーデー
5・30 上野アメ横に武装警官500人出動、禁制品をトラック16台分押収
6・3 李承晩、南だけの単独政府樹立を公式言明(井邑発言)
6・9 日本キリスト教団、全国教徒大会で戦争責任を認める
6・14 左右合作運動が始動。金奎植・元世勲・呂運亨・許憲会談(10月7日に7原則合意)
7・6 「大日本帝国」を「日本国」に改称
7・13 済州島が道に昇格
7・19 東京・渋谷で闇市の利権抗争。台湾人と武装警官が銃撃戦
7・22 北朝鮮民主主義民族統一戦線が発足
8・10 北朝鮮臨時人民委員会、重要産業国有化法令を公布
8・17 日本進歩党の椎熊三郎、衆院本会議で「在日朝鮮人の横暴を取り締まれ」と発言
8・24 衆院、憲法改正案を可決
8・28 朝鮮共産党北朝鮮分局と朝鮮新民党が合同、北朝鮮労働党を結成(〜30)。委員長・金?棒、副委員長・金日成
9・2 接待所などの転換に関する通達(集娼地域を警察の監視下に置く「赤線地帯」が成立)
9・9 日本、生活保護法公布(10・1施行)
9・28 ソウル、特別市に昇格
10・1ニュルンベルク国際軍事法廷で判決
10・2 大邱で警察と労働者らの大規模な流血衝突発生。南朝鮮全域に拡大(10月抗争)
(2006.1.1 民団新聞)