掲載日 : [2006-01-18] 照会数 : 8431
在日の人権運動を牽引 金敬得弁護士を偲ぶ
[ 市民団体主催の学習会で講演する金敬得氏 ]
金敬得弁護士の存在とその生き方は、在日2世以降の世代に大きな影響を与えた。故人と生前親交の深かった在日と韓・日の友人から金弁護士への思いを聞いた。
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闘う同胞の象徴
2・3世
民族的に生きる最後までぶれず
重度さん(62)=川崎市ふれあい館館長 80年代以降、在日同胞の人権運動を牽引した先駆者の1人だ。韓国籍のまま弁護士に就任できるよう後輩のために道を切り開いたことで、司法試験突破を目指す同胞が増えた(04年10月現在の外国籍弁護士は60人)功績がなによりも大きい。
弁護士としては指紋、参政権、公務就任権で憲法論争に挑んだ。在日の諸権利の擁護のために弁護活動に取り組むのだと常々言ってきたが、それを見事なまでに貫徹した。その姿勢は最後までぶれることはなかった。
性格的に誤解されやすかったが、常に真っ向から正攻法で闘うチャレンジ精神にあふれていた。民族教育では「民族共生教育をめざす東京連絡会」をつくって同胞父母をつなげ、事務所の同僚弁護士には韓国留学を勧めてきた。内に対しても外に対しても「民族的に生きる(人間的に生きる)」を実践してきた。これからさらにいい仕事をしようかというときだっただけに残念だ。
「2世時代」の終わりの始まり
朴善国さん(57)=元在日同胞21世紀委員会事務局長 「朝鮮」から逃げようとする自己との葛藤を経て社会的不条理と闘いつつ民族性を積み上げてきた精神的軌跡は、ほとんどの在日2世のそれと重なる。2世にとって象徴的存在の彼の死は「我が分身の死」を意味する。「2世の時代」の終わりの始まりを意識する。
「地方参政権の実現など日本での問題、韓国での在日同胞の法的地位問題、この先の朝日国交回復交渉時の法的処遇問題などに一線で関わらなければならないのに…。残念だ」と、死を覚悟したであろう昨年10月に語っていた。
「生まれ落ちた時から闘い続けて、疲れるよ」が口癖だったが、在日の尊厳と地位向上に一貫してきた彼の遺志を受け継ぎ、それぞれの分野でそれぞれが実践していくことが彼への真の追悼になると思う。
在日の人権状況改善へ遺志継ぐ
薫さん(52)=在日コリアン弁護士協会共同代表 私は在日としては5人目の弁護士。85年に司法試験に合格し、翌年の4月に司法研修所に入所しました。
もちろん、司法試験に挑戦する前から敬得さんの名前は知っていたので、同期の在日修習生と一緒に表敬訪問しました。敬得さんは快く我々後輩の訪問を受け入れ、美味しい焼肉をご馳走してくださった。その後も何度かお会いして、お互いの近況を説明し、意見交換をしていました。
最後にお目にかかったのは2・3年前、東京の集会の場でした。順調に回復されている様子でしたので一安心しておりましたのに、残念でなりません。
我々後輩弁護士が敬得さんの志を継いで、在日の人権状況を改善することが、最大の供養だと思っています。
パイオニアから学んだ「NO」
李起昇さん(53)=公認会計士・税理士 76年、誰もが疑いを持たなかった日本の差別に対し、金敬得さんが初めて「ノー」といいました。私は当時ソウルにいて、その事実を新聞で知りました。
その頃の日本の国家試験には、外国人には会計士の受験資格がないと思っており、私もそのことに何の疑問も持ちませんでした。そのため韓国で公認会計士になろうと、ソウルで言葉の勉強を始めていました。
金敬得さんの記事を見て「なーんだ、出来るんじゃないか」と思うと同時に、凄い人がいるものだと思いました。
その後在日の弁護士や会計士が輩出しました。二番目以降は、真似をすれば出来ます。それは、最初にする人とは次元が違う楽な道です。金敬得さんは在日の価値観を一夜にして築き直した天才であったと思います。
「ノーと言える」「ノーと言っても良いんだ」ということを我々は学びました。
不退転の決意で司法試験に合格
金容権さん(57)=翻訳業 「司法試験に落ちたら一緒に焼き肉屋やろう」と持ちかけられたこともあった。試験には上位38番で合格。しゃべらん男だったが、根性の塊だった。
金弁護士とは早稲田の同窓。彼が受験勉強中、私はよく新宿にある3畳の下宿を訪ね、一緒にホルモンを焼いて食べた。ホルモンは和歌山在住のお母さんが弁当箱に詰めて、カチンカチンに凍らしたうえで送ってきたもの。韓国料理が好きで、私が漬けたキムチもおいしそうに食べてくれた。
学者タイプで、話してみると冷たいくらいの論理構成。ムダは嫌いなほう。浪花節的なところが好きな私とは性格も正反対だった。でも、よく気があった。両足には各5㌔の砂袋を巻いて歩き、コーヒーを飲めば体にいいからと人のミルクまで獲ってしまうほど健康に気を遣っていたのに…。
日本の悪しき法制度変えた
朴容福さん(53)=清掃業 金弁護士は運動仲間でありながら、向こう岸を何歩も先を歩いている輝かしい先達だった。ただそこにいるというだけで励ましになった。その存在の大きさをいま、あらためて痛感している。たんに知人を亡くしたではすまない喪失感がある。えらく気が重い。これは個人的な感情の次元ではない。
われわれは貴重な生命を失った。では、日本人にとっては金弁護士の闘いがどういう意味を持つのか。金弁護士がいたことで、日本の悪しき法制度が変えられ、日本人にとっても風通しのいい国になったはずだ。日本人に率直に問いたい。日本にとってそういう人間が消えていくことがどういうことなのかと。日本こそ感謝し、謹んで哀悼の意を表するべきではないのか。
遺稿集に託した民族教育の願い
高二三さん(54)=新幹社代表 金弁護士から「『わが家の民族教育−在日コリアンの親の思い』をつくってくれ」と電話があったのは去年10月のこと。当時、入退院を繰り返していたが、実は新しいがんが腹膜に転移し、手の施しようがなかったときだった。金弁護士は「よくもって年内」「急いでつくってくれ、最後の頼み」と話していた。
87年に新幹社を立ち上げて最初に手がけたのも金弁護士が編著に加わった『指紋制度撤廃への論理』だった。結局、最後も一緒に仕事をすることになった。
『日・韓「共生社会」の展望−韓国で実現した外国人地方参政権』(田中宏・金敬得共編)と合わせ2月初めには出版できる。民族教育も地方参政権も、金弁護士にとって在日が在日であるために避けられない問題だった。明石書店から最近出たばかりの『新版・在日コリアンのアイデンティティと法的地位』と合わせ、この3冊に彼の思いが託されている。
ポスト金敬得今後の課題に
張學錬さん(42)=弁護士 最初に就職した法律事務所を飛び出すことになった時、とりあえず机を置かせて欲しいとお願いし、現在の事務所に移るまでの2カ月間ほどをウリ法律事務所で過ごした。
この事務所はボスの金弁護士が在所している時は必ず全員そろって昼食をとるという習わしで、愛妻弁当を持参する私以外は、全員ボスの指定の弁当を食べさせられるので、自由にメニューを選びたいというのが所員のささやかな希望だった。ボスは節約家であり、事務所の電気やエアコンをあまりにまめに消すので人がいても消してしまうくらいだった。
個人的な関わりを捨象しても、彼はやはり同胞弁護士界の文字通り重鎮であり、唯一無比の象徴的存在であったことは疑いがない。残された我々は金敬得後の同胞弁護士界をどのように構築していくのか、随分頭を悩ませることになるだろう。
民族的生き方金氏から学ぶ
宋貞智さん(47)=大阪民闘連代表 私が金敬得氏に初めてお会いしたのは81年、韓国に語学留学していたソウルでした。当時の私は自分の中の民族に自信がもてず、自分が自分であることが何なのかを随分悩み苦しんでいました。
そんな私に同じ語学留学生だった敬得氏は、自分の生い立ちから弁護士になるまでの経験を多く語ってくださいました。それまでの私は、在日は差別されて当たり前、在日に人権などないと、自分の未来に希望や夢を持つことができませんでした。そんな私にとって敬得氏との出会いは「やればできるじゃないか」と勇気をもらい、大きな心の支えの一つになりました。
1年半の留学生活を終えた私はそれまでの日本名を捨てて、在日コリアンとして民族名で生きていく道を選択し、微力ながら民族差別との闘いから共生を目指す取り組みを進めています。
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国際化にも貢献
日本識者
歴史動かした生涯は青史に
田中宏龍谷大学教授=最高裁の建物に初めて入った時のことが、鮮明によみがえる。
「司法試験に合格した今までの者は、みな帰化して司法研修所に入所。帰化すれば何の問題もない」と最高裁課長。「私は〃踏み絵〃としての帰化はしたくありません」と金敬得氏。
外国人修習生、そして外国人弁護士への道はかくして開かれたのである。私と原後山治先生は〞歴史が動く〟場に居合わせた。
戦後60年は、1月の鄭香均事件の最高裁敗訴判決で幕が開けた。しかし、原告勝訴とする反対意見を述べた泉徳治裁判官が、かっての最高裁課長だったことに、敬得氏は何を感じたのだろうか……。
在日コリアンの権利獲得は、韓国での外国人の地位向上に結びつくと熱く語っていた敬得氏。昨年6月の韓国での地方参政権開放には、感無量のものがあったのでは……。
戦後60年が幕を閉じる直前に、敬得氏は、逝ってしまった。あまりも早い旅立ちだったが、その生涯は永遠に青史に刻まれよう。
2世の自分史に我が身重ねて涙
佐藤信行さん(57)=「RAIK」編集長 金弁護士が法廷で泣いた場面にたまたま出くわしたことも思い出す。
一つは、86年2月、横浜地裁での川崎の指紋拒否者・李相鎬さんの裁判である。李さんがなぜ指紋拒否をしたのかを、自分の生い立ちから在日として生きることを決意するまで、詳しく話した。李さんの陳述のあと立ち上がった金弁護士は、じっと下を向いたまましばらく弁論ができなかったのである。
もう一つは04年12月、最高裁大法廷での鄭香均さんの裁判であった。鄭さんの陳述のあと立ち上がった金弁護士は、下を向いたまま、しばらくしてやっと弁論を始めた。
金弁護士にとって、李さんの半生も、鄭さんの半生も、「在日2世」として、あまりにも共通する「自分史」だったからであろう。私の半生も、在日2世のこの涙とともにあったことを、あらためて覚える。
自説を曲げないかたくなさの一方で誰とも対等に接する謙遜さと誠実さを持ち合わせていた。
彼なしには成しえなかったことを、後世の歴史家は正しく評価するだろう。
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胸打たれた献身的姿勢
韓国国内の弁護士
ソウルでも在日訴訟に全力傾注
権栄勲さん=ソウル在住、弁護士 金先生とは某新聞社勤務の友人を介し、ソウルで初めて会った。81年のことだ。体が引き締まっていて眼光鋭く、強い意志の持ち主に見えた。
先生は韓国政府と一般韓国人が在日韓国人をどう見ているのかに強い関心を示した。当時、韓国国内では、私も含めて在日韓国人についての理解は皆無に近かった。
それから10年近く経過してソウルで一緒に仕事する機会も増えた。先生は在日韓国人がらみの訴訟で毎回、最善を尽くしていた。
5年前、手術から回復したときは後進の育成に意欲を燃やしていた。もう会えないのですね。残念でなりません。
家のなかでは韓国語を常用
景洙謹=ソウル在住、弁護士 一時期、東京・四谷のウリ法律事務所で研修する機会があった。彼の自宅近くに家を借り、たまには彼の家で一緒に寝るほど親しく過ごした。彼は家の中では韓国語のみ使用の原則を守っていた。たまに奥さんが子供に日本語を使ったときには、私が見ていても気の毒なほど叱る場面を目にしてきた。
日本では在日韓国人に対する差別解消のため、在日韓国人の国民年金訴訟、指紋押捺拒否運動、民族教育問題などを主導しながら献身的に奉仕する姿を目に焼き付けた。
私が韓国に戻ってからも、彼は在日韓国人の法的地位向上のために韓国にまで来て祖国政府に対して訴える一方、祖国の人権弁護士や人権団体と協力しながら闘争する姿を見てきた。ひたすら一筋、それは在日韓国人の人権と法的地位向上だけのために生きてきた人権弁護士であった。
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<評伝>差別の厚い壁に風穴
韓国での地方参政権確立に道筋
在日韓国人2世の金敬得弁護士が亡くなった。56歳という若さだった。志半ばで病に倒れた故人の無念と、ねばり強く人権運動を闘ってきた多くの仲間が受けた衝撃はいかばかりだろうか。胸が痛む。謹んでご冥福をお祈りしたい。
多くの2世がそうであったように、故人もまた在日であることにコンプレックスを抱き、出自を隠して生きてきた一人である。幼少時代、チマ・チョゴリ姿の母親を忌避した苦い過去もあった。
生まれ育った和歌山を後にして早稲田大学に入学するも、学生時代はずっと日本名で通してきた。熾烈だった60年代後半の学生運動とも一線を画し、ボクシング部に身を置くノンポリ学生だった。
ところが、法学部を卒業後、夢見たジャーナリストへの道が韓国籍を理由に阻まれたことで人生が一変する。自ら否定し、遠ざけてきた在日とは、実は日本社会に根強く残る差別構造の結果としてもたらされた歪みの対象であることに気づいたのである。
日本社会の誤った「朝鮮観」を正し、ありのままの在日として生き、自己実現を図る社会をつくるために何をなすべきか。それまでの現実逃避から一念発起し、閉鎖的な日本社会の壁を壊すことを決意する。挑む相手は最高裁判所、めざすは弁護士への道であった。ゼロからの挑戦という無謀な闘いだったが、76年に合格率1・6%という難関中の難関である司法試験に合格した。まさに「思う一念岩をも通す」実践力は称賛に値する。決めたことはやり遂げるのが彼の真骨頂であった。
ところが、最高裁任用課は「外国籍者は司法修習生になれない」という欠格事項を持ち出し、帰化を勧める挙に出た。韓国籍のまま弁護士になることにこそ意義を見出す彼はこれを拒否し、最高裁に採用要望書を提出する一方、朝日新聞の「声」欄に投書した。在日2世の切実な叫びに世論が湧き上がり、日弁連や支持者らによる市民運動が立ち上がった。民団も最高裁に採用を要望した。
ついに最高裁は77年、但し書きに追加という形ではあるものの、外国籍修習生の採用に踏み切り、79年に在日初の弁護士が誕生することになった。彼の投じた一石が導火線となり、その後、約60人の外国籍弁護士が生まれた。道なきところに道筋をつけた先駆者として、その金字塔の輝きは決して光を失うことはない。
金弁護士は指紋押捺に象徴される外国人登録法や戦後補償、公務就任権など、在日同胞の人権を抑圧する法や制度と真っ向から闘った。地方参政権問題では、日・韓・在日ネットワーク(参政権ネット)の共同代表の一人として、東京、ソウル、大阪でシンポジウムを開催するなど、オピニオンリーダーとなった。韓国における定住外国人の地方選挙権確立も金弁護士の力なくしては達成できなかったと言っても過言ではない。また、一人の在日の親として、民族教育権の拡大にも心血を注いだ。
民団中央本部の顧問弁護士として、00年に決着をみた「手形問題」の処理をはじめ、新時代の在日同胞社会と民団組織のあり方を研究する「在日同胞21世紀委員会」の代表を務めた。同委員会の2年間の活動の中から具体化されたものの一つが在日韓人歴史資料館の設立だったことも記憶に新しい。
自身の健康管理には無頓着だったのか、忙しすぎて顧みる余裕さえなかったのか。
生前に「在日として生きる決意をしてからが、自分の本当の人生の始まりだ」と語ったことがある。在日としての自分自身を取り戻す闘いの渦中で、疾走し続けた金弁護士の人生ははからずも幕を閉じた。彼の生き様が多くの在日に新しい生命を吹き込んだように、「一粒の麦死なずんば」、彼の死は今を生きる多くの在日と心ある日本人に宿題を残していった。
それは在日をはじめとした社会的弱者が、当然の権利として自己実現を図ることのできる社会、すなわち多文化共生社会が日本に定着することである。その日まで今一度気を引き締めよう。それが残された者をして故人の遺志を受け継ぐことになる。
(編集長・哲恩)
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「偲ぶ会」来月25日に 友人50人が呼びかけ
「金敬得さんを偲ぶ会」が2月25日、東京・お茶ノ水の全電通ホールで開かれる。金弁護士の友人たちが世話人会を構成して幾度か会合を重ね、この日の日程を決めた。
世話人会の在日側からは重度さん(川崎市ふれあい館館長)をはじめとする30人余り、日本側から田中宏龍谷大学教授ら15人、さらに韓国国内の弁護士らも加わり、総勢50人程度で呼びかけ人を構成した。開会は午後からの予定。会費は未定。
問い合わせは℡03・3359・8831(J&K法律事務所)。
(2006.1.18 民団新聞)