掲載日 : [2006-01-25] 照会数 : 11972
韓日合作映画「力道山」 3月公開
[ 左・大相撲力士時代の力道山、右・プロレスラーとして絶頂期の力道山 ] [ 映画の1場面。プロレスのリング上で右がソル・ギョング演じる力道山 ]
人間・力道山の怒りと悲しみ…敗戦日本のヒーロー
1950〜60年代、日本人の国民的英雄として活躍した、プロレスラー力道山の人生を描いた韓日合作映画「力道山」(配給=ソニー・ピクチャーズエンタテインメント)が3月4日からテアトル系、ワーナー・マイカル、ティ・ジョイほかで全国公開される。生前、自らの出自を隠して生きてきた力道山は数々の映画に出演したが、そこでも触れられることはなかった人間、力道山を浮き彫りにしている。
逆境と闘い頂点に…出自語らず誇りを胸に
「39年間生きてきて悟ったことは、全身を投げうつ覚悟がなければ何も得られないということだ。人生は勝負だ」
映画「力道山」は、自らの運命を切り開くために逆境と闘い、自分の人生を全力で駆け抜けた力道山に迫っている。力道山は日本の国民的ヒーローになった後も、怒りと悲しみを心の奥に潜めて生きた。挫折と栄光……。対照的な評価で語られる力道山の人生とはどのようなものだったのか。
力道山は、植民地下の1924年11月、現在は北韓の咸鏡南道で、金信洛の名で生まれた。幼少時代から力の強かった信洛は相撲取りとしての素質を見込まれ、長崎県大村市で二所ノ関部屋の後援をしていた百田巳之吉の養子になった。戸籍名は百田光浩。
大相撲の最高位である横綱になることを夢みて1940年から10年間をさまざまな民族差別に耐えながら角界で過ごす。廃業直前の2場所の成績は小結で10勝5敗、関脇で8勝7敗。
そして大関昇進を目前に力道山が廃業したことについては、一つに相撲界側の「生粋の日本人ではないことによる圧力」説や、力道山自身が病にかかっていたなどの説がある。
父親の死後、その出自を知ったという力道山の長男・故百田義浩さんは月刊誌「アプロ21」のインタビューで、「当時は朝鮮出身のハンディは有形無形にあったかもしれず、下積み時代に日本社会の中でいろいろと差別を受けたり苦労が多かったことは容易に想像できる」と語っている。
正確な理由は定かではないが、力道山は国籍や人種を問わないプロレスラーへの道を選択した。力道山がリングで巨漢のアメリカ人を相手に、必殺技の空手チョップを連打し、次々に打ち負かすその姿に人々は興奮し、敗戦で日本人が失った希望を呼び覚まし、戦後日本のヒーローになった。 今も多くの日本人は力道山の出自を知らない。当時の日本で成功を収めるために、そして国民的英雄としての座を手中におさめてなお、力道山は秘密にした。
東京・池上本門寺と長崎県大村市の長安寺にある力道山の墓碑には「長崎出身」と記されている。一方、東京・深川の富岡八幡宮には江戸時代から最近のハワイ出身の横綱までの強豪力士約200人の碑があるが、力道山だけには出身地が記されていない。
義浩さんは、「親父の心の奥底には、朝鮮人としての誇りや心意気と、この日本で日本人として生きている葛藤はあったかもしれない。日本のマスコミが出自を興味本位に取り上げたり、韓国や北朝鮮の立場から親父の民族的な意味づけを強調するのは、どちらも親父の意に沿わず、それは心の民族意識や差別意識でしかないと思う」と話している。そして「親父は苦労を民族的恨みとして晴らすのではなく、日本社会のトップになることで昇華しようと考えていたと思う」と義浩さんは述懐した。
力道山はプロレスでの地位を築いた後、さまざまな事業を展開していった。力道山をずっと何かに駆り立てる原動力となった怒りは何か。「成功して笑いたい」という台詞のなかに、力道山の真実が込められているような気がしてならない。
力道山の生涯 1924年、現在の北韓・咸鏡南道生まれ。本名は金信洛。40年に相撲部屋へ入門。50年関脇(第3位)から大関(第2位)に昇進が決まっていた場所直前に番付が戻される。自らまげを切り力士を廃業。プロレスラーになろうと52年に渡米し修業。翌年帰国して日本プロレス協会を設立。54年に米シャープ兄弟と世界タッグチーム・チャンピオン・マッチを開催。決め技の空手チョップで米レスラーを圧倒し、国民的ヒーローになる。その後、国際的にも君臨。63年12月8日、東京・赤坂のクラブで腹部を刺され、一週間後の15日、腹膜炎による合併症で死去。39歳。
(2006.1.25 民団新聞)