掲載日 : [2006-02-22] 照会数 : 8345
評価高い「パッチギ」 井筒監督に聞く
[ 「熱い心と冷徹な眼差し」を話す井筒監督 ]
少数者への目 映画人の務め
差別構造なおも 歴史に翻弄される姿描く
続編を準備
2005年度の日本映画界で、抜群の評価を得た井筒和幸監督の「パッチギ」(配給=シネカノン)。1968年の京都を舞台に、対立する朝鮮高校生と日本人高校生の葛藤と友情を描いた作品で、民族や立場を超えて、人と人はつながりあえるという可能性を示した。今、「パッチギ」は日本を飛び越えて、韓国・ソウルの明洞に開館した劇場「CQNミョンドン」で、14日から公開されている。井筒監督に作品への思いを聞いた。
民族の壁を越えて
映画タイトルの「パッチギ」は頭突きを意味し、乗り越える、突き破るという意味も持つ。朝鮮高校生と日本の高校生が敵対しながらも、民族や立場の壁を乗り越えて未来へ向かって歩む姿に、多くの人たちの共感を呼んでいる。
「パッチギ」は第79回キネマ旬報ベスト・テンの日本映画部門1位、第60回毎日映画コンクールの日本映画大賞、第48回ブルーリボン賞の監督賞など数々の賞を獲得、ほかの受賞候補作に大差をつけた。
「メジャー会社では作れない映画を、勇気を持って一生懸命作ったことが評価されたという、そこに尽きる」
映画では在日の歴史的背景や、日本の社会性も浮き彫りにした。「今日に至るまで、日本の差別構造は本質的に何も変わっていない。民主社会である日本で、映画人がやらなければならない役割があるはず」
こう話す井筒監督の眼差しは、日本に暮らすマイノリティー(少数派)の人たちに向けられている。
井筒監督が何度も発したのが「ウリナラ」という言葉だ。古代、渡来人たちによって造られた奈良県で生まれ育った。「高校時代、ウリナラの意味を祖国だと教え、その場所に自分たちが息づいていると語ってくれる教師がたくさんいた」。幼いころから在日との交流もあったというこの土地で歴史感覚を育て、多様な価値観を培っていった。
あの時代忘れまい
映画の時代背景は68年。この年、日本の大学闘争・紛争時期に全学共闘会議(全共闘)が各大学に作られ、フランスでは「5月革命」が起きた。そして映画に取り入れられた「イムジン河」は、当時の人気フォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」が歌い、発売寸前に発禁となった。
また60年代は米軍の介入によるベトナム戦争が本格化し、中国では文化大革命が始まるなど、世界的激動の中、新旧の価値観が衝突する時代でもあった。
「そういうものを皆、今忘れてしまっているということに対する僕ら側のアジテーション(扇動)もある。今はあの時代ではないと。少数は生き続けているのに、でも差別は生き延びている。この映画をこの現代社会に持ってきて、皆気がついてよと、一石を投じたかった」
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韓国の若者も強い反応…ソウルで上映開始
映画を観た中・高校生たちからは、「初めて頭を殴られたような思い」「いろいろなことを映画から教わった」などの感想が寄せられ、学校の教材に用いれられたり、上映会も行われたという。
「マイノリティーを見つめるのは、人生そのものが貴重な価値を持っているから」だと話す。「歴史のなかで翻弄されてきた人たちがいる。熱い眼差しも冷徹な眼差しも含めて、そういう作業をしていくのが芸術だし、見つめなければ誰が見つめるんだという、そういう熱さが僕らにはある」
映画というのはいまだに啓蒙の部分を持っているからこそ、問題提起できる作品を今後も作っていきたいと話す。
海賊版も出る人気
「パッチギ」は14日からソウルで公開されているが、上映以前からネットで海賊版が横行していた。「そのくらい韓国の若い人たちが、この作品のことを気にしている。嬉しいのか悲しいのか分からない悲鳴ですね」
そして「僕らは続きを作るだけ。描いていかなければならないことはたくさんある」と話すのは、「パッチギ」の第2弾の話だ。「68年で在日が消えた訳ではない。日本社会のなかでのその後がある。来年、続きが世の中に出せたらいい」。井筒監督の歴史の掘り起こし作業はまだ続く。
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プロフィール
井筒 和幸(いづつ・かずゆき) 1952年12月13日、奈良県大和郡山市生まれ。奈良高校在学中から映画製作を開始。8㍉、16㍉、35㍉の作品を手がけて上京。
81年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以後「みゆき」(83年)、「晴れ、ときどき殺人」(84年)、「二代目はクリスチャン」(85年)、「犬死にせしもの」(86年)、「宇宙の法則」(90年)、「突然炎のごとく」(94年)、「岸和田少年愚連隊」(96年=ブルーリボン最優秀作品賞)、「のど自慢」(98年)、「ビッグジョー!〜ハワイに唄えば〜」(99年)、「ゲロッパ」(03年)、「パッチギ」(04年)など、抒情性と痛快さをあわせ持つエンタテインメントを作り続けている。
また、独自の批評精神と鋭い眼差しにより様々な分野での「御意見番」として、テレビ、ラジオのコメンテーターやCM出演などでも活躍している。
(2006.2.22 民団新聞)