掲載日 : [2006-03-01] 照会数 : 9870
<寄稿>遺族に届けた徴用遺骨 石村弘
[ 石村弘さん(北海道赤平高校教諭)
]
真相糾明委とも連携
60余年ぶり涙の対面
太平洋戦争の末期、北海道赤平市の北炭赤間炭鉱に徴用され、病死した同胞の遺族が2月17日、65年ぶりに遺骨と涙の対面を果たした。遺骨は解放後も60年間、市内の宝性寺に眠っていた。地元で生徒たちと一緒に10年以上にわたり、郷土史の掘り起こしをしている道立赤平高校教員の石村弘さん(57)が偶然見つけたものだが、寺にはこれまで「徴用韓国人の遺骨はない」と言われてきた。石村さんらの地道な史実掘り起こしがなければ、遺骨が遺族の懐に抱かれることはなかっただろう。これまでの取り組みの経緯について石村教諭に寄稿していただいた。
北海道・赤平の浄土真宗、宝性寺を訪れたのは昨年2月のこと。このとき、無縁仏のある納骨堂に案内された。これまで年に3,4度は訪問させてもらっていたが、納骨堂に入ったのはこれが初めてだった。
通称名の骨箱
薄暗い無縁仏納骨堂の中、1体だけ気にかかる骨箱が目に入った。荷札には50、箱には「安川龍文」と記されてあった。死亡年月日は昭和20年10月26日、37歳と墨で記されていた。瞬間的に安川龍文の本名は安龍文(アン・ヨンムン)さんで、韓国・朝鮮人ではないかと考えた。
過去帳を見せてもらったところ、安川龍文さんの住所は「第一協和寮」と記されていた。朝鮮人は第一協和寮から第三協和寮に分けて入寮させられていた。予想したとおり、安川龍文さんは韓国・朝鮮の方だということが判明した。
1日も早く遺族を探して遺骨を返還したいと、地元の市役所に昭和14年から20年までの埋葬認可証の存在を照会。ようやく8月になって安川龍文さん(趙龍文さん)の戸籍が明らかになった。これは龍文さんの兄の本籍地だったが、韓国の真相糾明委員会の追加調査もあり、最終的に忠清南道洪城が本来の本籍地であることを突き止めることができた。
生々しい記憶
遺族の方に直接会い、遺骨の話や返還の話をしようと私は今年の1月、ソウルへ出かけた。ソウルに着くと、甥にあたる趙榮奎さん(76)がホテルに訪ねてきてくれた。私たちは赤平の話や、遺骨が見つかるまでの経緯を詳細に話した。
趙さんは60年前、中学生だったころの記憶を蘇らせ、龍文さんが日本に徴用された経緯をありのままに語ってくれた。昼間は皆逃げるので、連行は夜に行われたという。ショックで叔父の奥さんは家を出てしまい、そのまま行方不明になったこともわかった。2月17日、趙榮奎さんが叔父の亡くなった地、「赤平」にやってきた。私たちは遺骨のある大谷派宝性寺で65年ぶりの再会を目にすることになった。趙さんの号泣する姿を見て、自分のこれまでの活動がどうだったのだろうか、という自分に対する疑問の気持ちが湧いてきたのは不思議であった。
それは、心のどこかに遺族の人たちが喜んでくれるのではないか、人間として正しいことをしているというある種のエネルギーを燃やしながら過ごしてきた数十年だったからだ。でも、やはり違うような気がする。それは35年間、日本に支配され、総てを失われてきた人たちの「恨」の部分をやはり理解できていないということではないか。
終わらない戦後
今回、遺族調査を進めるなかいろいろな人たちと出会い、いろいろなことを勉強させてもらった。生徒ともども多少は成長を促された時間を持ったような気さえする。
しかし、自分自身の中で確実に思えたのは一つ。それは、まだまだ日本の戦後は終わっていないということ。そして、自分の活動に関していえば、ほんの一歩踏み出しただけなのだ。急いで日本統治35年間の陰の部分を明確にしなければならない。
昨今、日本の為政者が靖国参拝、戦争賛美の発言など、国内外から大きな批判を浴びているにもかかわらず、その姿勢を意識的に変えようとしないことに対して私たちは注意を払う必要があるのではないか。私たち民衆には平和への運動を続けていくという重要な課題がある。
今後とも、赤平の歴史や北海道各地に存在する韓国・朝鮮人の強制労働の実態を調査し、両民族に真の和解と平和が一日も早くおとずれるように努力を続けていきたいと思う。
(2006.3.1 民団新聞)