掲載日 : [2006-03-01] 照会数 : 10139
弔辞・金敬得さん渾身の生涯 重度・館長
[ 弔辞を述べる重度さん(川崎ふれあい館館長) ]
同胞は あなたを誇りに思い
あなたの生き様を語り継いでいくでしょう
2月25日に催された「金敬得さんをしのぶ会」では、故人の業績や人柄について心にしみる言葉が語られた。川崎市ふれあい館館長の重度さん(61)は次のような弔辞を述べた。
怒り・苦悩・不屈の魂
不条理に法廷弁論で涙も
私と彼との出会いは、彼が司法試験に合格した1976年、彼が早稲田大学鋳物研究所の宿直のバイトをしていた頃であった。難関の司法試験を突破し、韓国籍のまま弁護士を目指す彼の姿勢に感動し、激励したいとの思いから、訪ねていったのが最初であった。
その後、弁護士活動を開始した彼と度々会ったが、足に砂袋を巻いているのをみせながら、「体力の維持に努めているんだ」と笑っていた。
1982年6月から私は延世大学の語学堂に短期留学をし、新村に下宿を定めたが、その1階にすでに彼が下宿していた。おなじ釜の飯を食う間柄になったわけである。
すでに語学堂を卒業していた彼ではあったが、彼をめぐっての語り継がれているエピソードがあった。「とにかくウリマルらしき言葉でよく喋る在日の学生が居たが、何を言っているのかはさっぱりわからない。しかしウリマルを学ぼうとする彼の姿勢には感心する」というものであった。
いつも留守がちな彼の部屋を訪ねては、掃除をして花を飾って行く女性がいた。誰なのかと下宿のおばさんに訊ねられたこともあったが、後に夫人となった女性であるとは私には知る由もなかった。
下宿宅の都合で、彼とともに夏休み旅行に行かざるを得なかったことがある。木浦から小さな貨物船に鈴なりになって紅島に行ったのだが、そのとき、「ダフ屋から乗船券を買って早く行こう」と主張する私に、「買うのがいるから、売る奴がいる」と彼は言い、延々列の中で待った。とうとう乗り切れず、木浦で一泊するはめになった。
帰りは帰りでソウルに汽車で帰るのが早いか、バスで帰るのが早いかでこれまた意見が分かれ、バスで帰った私が下宿で彼の帰りを待っていた。 韓国での弁護士資格を取りたいと努力を重ねていたようだが、日本語を母語とする彼にとって当時は語学的に無理があったと、のちに述懐していた。
在日の市民的権利獲得運動をすすめる数々の訴訟で、彼と接する機会は多かった。法廷での弁論の早口さに苦言を呈したこともあったが、在日の持つ苦悩と不条理下にさらされている事への怒りのこもった弁論は、彼ならではのものであった。法廷弁論で涙することもあったが、在日2世の苦悩と葛藤を等しく経験するが故のものであった。 彼の「自己奪還」は司法試験を目指すことによってはじめられたが、それは在日にかけられていた民族差別との闘いをとおして形成された民族意識であった。
彼の後半生は、その闘いを立派に貫徹した。それは自分自身のみならず、家庭教育においても同様であった。
亡くなる直前に見舞ったとき、「こどもたちへの民族教育が成功しているではないか」と賛辞を送ったら、彼は病床から無言で両手を差し上げて誇っていた。『我が家の民族教育』の出版を最後まで気にかけていたのは、家族への愛に満ちた感謝と誇りであったに違いない。
在日の人権闘争の闘士・金敬得弁護士よ!
在日同胞はあなたを誇りに思い、あなたの生き様をいつまでも語り継いでいくことでしょう。
(2006.3.1 民団新聞)