在外同胞記者大会
世界20カ国から60人参加
韓国記者協会(ジョンイルヨン会長)が主催する在外同胞記者大会が5月29日から6月2日まで開催された。全世界20カ国60余人の在外同胞記者が参加し、日本から民団新聞の筆者が、統一日報社からはソウルの現地記者が参加した。
初日にはソウルプレスセンターで来賓を交えて盛大な開幕式が行われ、翌早朝にはソウルから約4時間バスで墨湖へ向かい、墨湖から船便で約3時間かけて鬱陵島に到着した。
到着後すぐに約5時間のセミナー、31日は午前セミナーの後、往復約4時間の独島取材を敢行。6月1日には再び船便で墨湖へ、バスで1時間半後束草へ、夜には政府高官との意見交換会などが行われて、6月2日午前中にソウルに移動、正午には国務総理公邸に韓明淑国務総理を礼訪した。
セミナーの議題は、①在外同胞言論発展支援法②新韓日漁業協定の締結背景・問題点などで、全体討論の後、支援法要請の決議や海外ネットワークの作成準備に取りかかることなどが決まった。鬱陵島から独島に向かう船の中から初めて独島を見たとき、独島は鬱陵島の兄弟島、それも手のかかる小さな末っ子のように見えた。島の輪郭、岩礁など鬱陵島を船が出る時に見たその光景とそっくりであった。島が見えるとすぐに船着き場に着いた。
しかし、みんなが上陸するのに意外に時間がかかった。独島は東島、西島の2つを総称するが、われわれは東島に上陸した。先に上陸した人々の歓声のようなものも聞こえた。「ドットヌンウリタン」。われわれ一行も加わった。ほぼ全員が歓声を上げた。
明るい太陽のもと、みんなが陽気な気分に満ちていた。時間はあっと言う間にすぎてしまった。警備兵がすぐに船に乗るよう促した。20分しか上陸時間はなかったからだ。帰路の船の中では、船酔いと闘うのに必死であった。
鬱陵島に到着直後、日本の報道機関から日本からただ一人参加している筆者に国際電話で国籍を問うてきた。「ドットヌンウリタン」と叫んだ人間の国籍は日本か韓国か、直接本人に確認する点では良心的な姿勢であるとも考えた。しかし、どちらの国の旅券で来たのか、個人の立場は明白であっても在日全体ではどうだろうか。果たして韓日が対立する場合どちらの側の立場に立つのだろうか。海や島を眺め問題の複雑さとこの地域の今後を考えた。
独島を鬱陵島と切り離して論ずるには無理がある。鬱陵島および独島の周辺は私の見た限りでは、とても豊かな漁場には見えなかった。周辺はイカ、スルメの産地で、見える船は小さな漁船であり、他国に脅威を与えるようには見えなかった。鬱陵島の人口は今1万人程でその3〜4割は農業に従事しているとの説明があった。宿舎での料理は現地で取れた健康によさそうな野菜と山菜が多く、魚介類は多いとは言えなかった。スルメは韓国一だとバスの運転手は誇らしげに語っていた。
独島周辺が豊かな漁場というのは、創られたイメージ、あるいは過去の農漁業中心の時代の考えに引きずられた想像の産物ではないか。
独島には、日本人は歴史上一度も居住したことはなく、見たところ天然資源もあるようにも見えず、また漁場としても豊かには見えないとしたら輸出入などの経済規模からしても日本は独島(竹島)にこだわる必要は全くないのではないか。
1980年代までは独島、鬱陵島に行くのに韓国本土から12時間以上かかっていて渡航に苦しみ、80年代に現在の運航船ができて3時間程度に縮まったとき島民はこぞって喜んだそうだ。
今やこの島々は60〜70年代の白黒テレビのような暗い時代から90年代以降のカラーテレビの色鮮やかな時代に移るかのように、国際観光諸島として注目され発展していこうとしている。日本もこの方向の考えに賛同し協力して、今後韓国本土の人々は勿論、日本人も、またそれ以外の国々の人々も平和な保養地として訪れ、この島が多くの人々を楽しませる地域になるように願っている。
梁東洙・編集主幹
鬱陵島内の教会と教育施設
開拓時代の古い民家跡
セミナーを受ける記者たち
独島の東島頂上附近の建物
鬱陵島の独島博物館の碑
仏教寺院
通九味村海外沿いの島
(2006.6.21 民団新聞)