掲載日 : [2006-08-15] 照会数 : 11100
<第61周年光復節>民団顧問 草創期を語る
[ 【右】朴権熙さん=医師国家試験合格後、民団の民生局長として厚生省と健康保険について交渉を重ねた、
【左】呉基文さん=建同の朴烈委員長から手渡された表彰状(46年8月31日)を今も大事にしている ] [ 【右】鄭ドンファさん=「在日自願軍」では少尉として人民軍と闘い負傷をおった、
【左】順姫さん=80年代半ば、指紋拒否運動の先頭に立ち、マスコミから「最も戦闘的な団体」と評された ]
初の在日信組財政支援に力 朴権熙さん
東アジアの平和伝えたい 4・19後韓国国会議員に当選
53年に民団の傘下団体であった在日韓国学生同盟の委員長になった。副委員長は明大生であった朴炳憲氏(現常任顧問)で、執行部には各大学から1〜3人加わってもらった。
執行部発足に当たっては、新宿区若松町にあった民団中央本部(現在東京韓国学園のある場所)の2階の韓学同事務所で2週間ほど合宿し、朝は学校へ、夕方に会議、夜は勉強という生活をして「われわれはどう生きるべきか」と真剣に討論したものだ。
祖国の分裂と動乱の時代に日本で勉強するわれわれの目的、目標、存在意義についての議論からお互いに仲間意識も生まれ、よい関係であったと思う。祖国が立ち直るためにも、われわれが一定の働きをするためにも、勉強しなければならないなどと語り、大いに意気投合した。
大学祭には駐日代表部から資料を得て、本国の映画などを紹介したこともあった。54年に慈恵医大を卒業、医師国家試験に合格した。
民団の役職は55年、丁賛鎭団長の時に民生局長に就いた。まだ社会保険の未整備な時期で、厚生省の健康保険の道筋を開く準備をした。また、医師を集めて在日韓国医師会をつくった。
57年に文教局長に就いたが、民団はその前から朝鮮奨学会の件で総連と対立しており、2泊3日のいわゆる「熱海会談」で民団、総連、日本が同数の理事を出す協力体制に進むことになった。
20代から韓国国政を目指していた。英国式の民主政治を考え、一歩一歩進もうとした。「上がきれいでないと下はきれいにならない」と考え、50年代後半に2度無所属で立候補したが、その時は惜しくも次点だった。3度目は60年7月19日の総選挙で社会大衆党から選挙区で立候補し当選した。34歳の時だった。
後に統合し、統一社会党に属して組織局長を務めた。民主党政権には近く、金永善財務長官に働きかけて在日の信用組合へ当時200万㌦の財政支援を実現させるのに力を尽くした。法制委員会に働きかけて僑胞財産搬入法の準備もした。
61年5月15日に開かれる民団大会に、国政報告のため日本に来たが、5月16日に本国で軍事クーデターが起こった。しばらく静観していたが、国会も機能停止とされたのでそのまま日本に滞在することになった。
独自の個人事務所などを持っていたが、帰国せずその後は東京の上野で45年間開業し、医師生活を続けてきた。内科・総合医師として日本社会から一定の信頼を得てきたと自負している。
壬辰倭乱で英雄のごとく活躍し、江戸時代の朝鮮通信使のさきがけをなして、後に永く続いた東アジアの平和をもたらした松雲大師の業績を伝えたいと、現在はその記念事業に力を入れている。
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「建同」唯一の女性発起人 呉基文さん
信託統治支持に怒り 朴烈委員長と反対訴え
45年の解放当時、在日同胞はしおれた花が生気を取り戻したように、喜びを全身で表した。
「夢なら覚めないで、現実なら変わらないで」と祈りながら、在日同胞も大同団結して祖国再建に役立つべきだと思っていた。
ところが、在日同胞の生命と財産を保護するため、その年の10月15日に結成された在日朝鮮人連盟(朝連)は、次第に左傾化していったため、足が朝連から遠のいてしまった。
一方、12月16日から28日まで、モスクワで開かれていた米・英・ソ3相会談では、分断されている韓半島問題について、中国を含む4カ国が信託統治するという案が可決されたと報道された。
「やっと解放されたのに、また外国の支配を受けなくてはならないのか」。怒りが爆発した。
その頃、天皇暗殺を計画したとして大逆罪で死罪を宣告された朴烈氏が24年ぶりに秋田刑務所から出獄し、翌年の46年1月14日に東京で歓迎会が開かれると聞いた。「死んだ朴烈が生きて帰ってきた。一目見なければ」という思いで出かけた。
歓迎会を主催したのは朝連だった。会場には「信託統治支持、朴憲永・呂運亨支持、在日同胞の生命と財産を保護」というスローガンがかけてあった。怒りで全身がぶるぶる震えた。
答辞に立った朴烈氏は、「今まで生きてこられたのは神様のおかげであり、2番目はみなさんのおかげなので、余生はみなさんが畑を耕す牛になれと言えば牛になり、馬になれと言えば馬になる」とあいさつした。
会の終わりごろ、大胆にも発言を求め、壇上に飛び上がって泣きながら訴えた。「先輩のみなさん。日本の帝国主義の統治下で政治的弾圧と民族的差別など、どれほど多くの試練を受けてきましたか。そういう辛い経験をしたのに、どこから信託統治という話が出るのですか。女は男の付属品と言われたが、私は在日250万同胞の輪の付属品になって、輪が回らないようにします。信託統治には絶対反対です」と叫んだ。
3日後、自宅に朴烈氏の初代秘書であった金正柱氏(後に民団中央本部第33代団長)が訪ねて来て、朴烈氏の家に連れて行かれた。そこには李光勲氏(後に建同副委員長、民団初代副団長)もいた。
朴烈氏は言った。「呉女史は監獄には入らなかったが、その燃える愛国心は私たちと変わらない。信託統治反対の集まりを作ろうと思い、来てもらった」。示された綱領は「信託統治絶対反対、李承晩博士と金九先生支持、在日同胞の生命と財産を保護」というものだった。
民団の前身である新朝鮮建設同盟(建同)はこうして1月20日に朴烈氏を委員長に結成され、唯一の女性発起人だった私は婦人部長になった。
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国家民族のために闘った日々 鄭ドンファ(■和)さん(■=火+同)
「在日自願軍」に志願 最前線で人民軍と激闘も
これまで中央副団長、監察委員長、副議長、民団新聞社長、各局長など団長以外すべての役職を経験した。
1946年10月に民団が結成され、初代団長に朴烈氏が選出された。日帝下の独立運動であまりにも有名で、民団ではカリスマ的な絶対的存在だった。私は宣伝局員としてその下にいた。鄭翰景団長の当選や珍しい3人団長団実現させた。
今だから話せることもあるが、若いころはかなり無茶をしたかもしれない。しかし、私利私欲のためではなく、国家民族のため、愛国心と自己の信念に基づいて闘った。 民団草創期には明大の学生だった。解放直後に朝鮮学生同盟ができ、またたく間に全国組織になったが、左翼系学生に主導権を握られたままだった。われわれは1年以上準備して機会を待ち、朝鮮学生同盟の役員改選のとき総会に乗り込んだ。 われわれには殴ってから話す流儀があったので、役員を殴って舞台を占領し、2回ほど流会させた。ついに総会で彼らが退場したのでわれわれは「在日韓国学生同盟」と改称した。
朝鮮学生同盟の事務所は、新宿奨学会の事務所にあった。われわれは事務所を奪還するため突入しようとしたが、騒ぎが大きくなり何百人もの朝連、民団の人々が奨学会の建物を取り囲み、ついにはアメリカの憲兵が封鎖し、両方とも使わせないようになった。
韓学同の事務所は、新宿区若松町の民団事務所に置くことにした。悔やまれるのは法政大で開かれた大会に、100〜150人を相手に、50〜60人で攻め込んだとき、義兄弟の李相錫が取り囲まれ、乱闘中に椅子などの下になり逓信病院で亡くなったことだ。180㌢を越える長身で、弁のたつ優秀な学生だった。終戦後の興奮の時代のことだった。
6・25が起こったとき「国を守りに行こう」と代表部に行ったが受け入れてもらえず、皇居前のGHQ(マッカーサー司令部)に行き、30人ほどでハンガーストライキを敢行すると目にとまり、アメリカ軍がわれわれを受け入れた。
朝霞の基地で基礎訓練を受け、60〜70人の一次在日学徒義勇軍は出発し、仁川上陸作戦に加わった。その後、全国民団が募集、合計で600人以上の在日自願軍になった。東莱の臨時の士官学校で4週間の訓練を受けて、一応少尉となって最前線の臨津江に配置された。2〜3カ月間人民軍に包囲され、自軍はほとんど消滅、自分も負傷し水原の病院に収容された。
その後除隊して杉並天沼の建青の訓練所に戻り、1年ほど軍隊生活を送った。帰日後、金載華団長の時、問題提起をして20代で組織局長に就き、北海道から九州まで回り、全国的な組織整備活動を行った。
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「戦闘的」婦人会に組織強化 順姫さん
在日同胞の権利死守 民団愛し理想に燃え活動
解放後、在日同胞の代表的な組織であった朝連が暴力的で左傾向であったため、朝連に反対して自由と民主主義を掲げる在日本朝鮮居留民団が誕生した。
民団との関わりは1946年、30歳の時だった。当時、民団中央本部の結成委員の一人であり、九州地方協議会の会長として九州各地の民団の産みの親である叔父の鎭鶴(福岡県本部初代団長)に感化され、叔父の良き協力者として活動を始めることになった。
47年、熊本で叔父や夫の河永雲(第4代団長)と民団本部結成に尽力した。当時の朝連は民団潰しに躍起になっていたが、解散命令(49年9月8日)が出る半年前ごろは、毎日自宅に「主人を殺す」という脅迫電話がかかってきた。
その脅しが元で主人はノイローゼ状態になり、子どもたちにも「朝連が襲いに来るから、服を着ていつでも逃げられるようにしなさい」とうわごとを言うようになった。やがて精神的な病にかかり、数年後に47歳の若さで亡くなった。
主人が亡くなった後、子どもたちの教育のため、大阪の親戚を頼って引っ越した。65年に婦人会本部の会長になり、民団の補助的な存在から独自の活動方針のもと学び行動する「戦闘的」婦人会に組織を拡大強化した。中央の会長として指紋拒否の先頭に立ったのも、在日の権利を守る一心からだ。
当時は民団が創団60年を迎えることなど予想もしなかったが、執拗な攻撃に苦しみながらも闘い抜き、民団を守ったことが懐かしく思い出される。私の人生で一番楽しく、充実していたのは、わが同胞のために一生懸命汗をかいて仕事をしたことだ。
私たちは日本に居住する韓国人として、本国情勢をみながら生活に追われながらも、在日同胞の生活扶助に尽力し、不安定で脆弱な本国政府に代わり、日本政府当局と不安定な法的地位の改善に向け、努力を重ねる一方、他郷暮らしの生活が苦しくても本国への支援を惜しまなかった。
当時は貧しくともみんなが希望に燃え、一致協力し、当面の問題には大いに議論を尽くし、綱領と規約を自らを律する一種の憲法であり、法律として忠実に従い、規約一字をめぐって3日3晩みんなで議論を尽くしたものだ。民団を愛し、理想に燃えたころだった。今日では、規約はどこに行ったのか、規約に照らしてどうなのか、規約そのものを知らない団員が余りにも多いように思う。
在日同胞の数が日本人との結婚などで、減少していく現状を見るにつけ、とてもさびしく思う。日本の保守化も気がかりだ。こういう時代だからこそ、民団がしっかりしてないといけないし、常に本国と日本社会の動向を注視し、対応策を研究すべきだと思う。
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創団60年の歩み(1945〜05)年表
1945年
10月15日 在日朝鮮人連盟(朝連)結成大会
11月16日 朝鮮建国促進青年同盟(建青)結成、洪賢基委員長
12月17日 改正衆議院選挙法で在日朝鮮人・台湾人の参政権停止
1946年
1月20日 新朝鮮建設同盟結成(建同)、朴烈委員長
2月27日 朝連第2次全体大会、信託統治の賛成・反対で激論
10月3日 在日本朝鮮居留民団結成大会、朴烈団長。建同を発展的解散
1947年
2月21日 機関紙「民団新聞」創刊号発行
5月2日 外国人登録令公布、即日施行。「反対適正化委員会」結成
12月6日 国連監視下の韓国総選挙支持声明、建青と対立
1948年
4月24日 阪神教育事件、大阪で朝鮮人学校閉鎖反対デモ
29日 朝連、民団打倒声明発表
9月8日 本国政府、民団を正式承認
10月4日 第5回定期全体大会、名称を在日本大韓民国居留民団と改称
1949年
1月4日 大韓民国駐日代表部設置
5月31日 在日韓国学生同盟結成
6月15日 在日大韓婦人会中央本部結成、呉基文会長
9月8日 GHQ・日本政府、朝連・民青などに解散命令
10月19日 日本文部省、韓国人学校閉鎖通告
1950年
1月25日 外国人登録国籍欄を「大韓民国に統一を」と日本政府に交渉
6月25日 6・25動乱勃発
7月2日 全国団長会議、赤防基金・慰問品募集、義勇軍接受決議
8月5日 在日韓僑自願軍結成
29日 在日本大韓青年団結成、寧柱団長
9月13日 在日青年学徒義勇軍第1陣が横浜港出港
1951年
1月9日 在日朝鮮統一民主戦線(民戦)結成
1952年
2月15日 第1次韓日会談開始、中央本部内に韓国統計調査室設置
4月25日 韓日会談、財産請求権・自由出漁問題などで決裂
28日 サンフランシスコ条約締結にともなう外国人登録法公布
1953年
3月27日 本国政府、民団が要請した200万㌦融資を承認
7月23日 第2次韓日会談、請求権・漁業問題で無期休会
1954年
10月28日 北韓の南日、南北協商会議提案の書簡を在日有力者に伝達
1955年
5月25日 在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)結成大会
1956年
2月28日 韓日会談再開予備交渉開始決定
6月25日 韓日会談促進中央民衆大会
1957年
11月5日 本国政府、教育官の派遣と補助金送付決定
1958年
5月6日 韓日会談、「在日韓国人の法的地位」など4委員会設置
16日 アジア競技大会、韓国選手団歓迎会
1959年
3月3日 全国45カ所で北送反対決起大会、街頭示威行動、10万人参加
12月11日 北送反対決死団450人、線路に座り込みで北送列車停止
14日 北送船第1陣で238世帯、975人が新潟港出港
1960年
4月19日 本国で4・19学生革命、22日に民団歓迎声明
10月8日 大韓青年団全国大会で名称を在日韓国青年同盟に改称
1961年
5月16日 本国で5・16軍事革命、民団支持声明、第5次韓日会談中断1962年
2月20日 在日韓国人商工連合会結成大会
1963年
4月25日 駐日代表部、日本各地21カ所に韓国教育文化センター設置
1964年
2月1日 近畿地協、法的地位要求貫徹民衆大会で政府の対日屈服反対表明、デモ行進。
10月7日 東京五輪招請参観団第1陣訪日
1965年
4月3日 韓日会談、法的地位・請求権・漁業問題に関して仮調印
5月2日 外務部・国防部両長官、在日同胞の兵役免除に関し共同声明
6月22日 韓日協定正式調印(東京)、権逸団長が談話
12月14日 駐日代表部が駐日大使館に昇格
1966年
1月17日 韓日協定発効、永住権申請受付開始
1967年
4月1日 永住権持つ韓国人に日本国民健康保険法適用実施
7月27日 本国夏季学校、在日学生439人が海軍軍艦で出発
9月7日 李裕天団長、美濃部東京都知事に朝鮮大学許可反対抗議
1968年
1月21日 金嬉老事件、日本人13人を人質に警察と対峙
1969年
6月2日 入管法反対中央民衆大会、約5千人参加
8月4日 大阪万博韓国人後援会発足
1970年
4月10日 韓国人原爆犠牲者慰霊碑除幕式(広島市)
1971年
2月15日 第16回法的地位委員会、永住権申請者数35万以上を確認
5月7日 金在権公使、東湖反国家発言録音テープ問題に言及
12日 録音内容公開席上に東湖不参、11日監察委員会が談話
8月2日 直轄措置完了の東京本部に青年・学生100余人が襲撃、暴行、中央幹部ら20余人が重軽傷
3日 全組織に「非常事態宣言」、組織防衛対策委員会設置
1972年
2月18日 東京本部・韓青・韓学同など70余人が中央本部に乱入、中央3機関長ら幹部を監禁・暴行
5月2日 韓青中央現執行部乱動糾弾大会
7月7日 第20回中央委員会、韓青・韓学同の傘下団体取り消し決定
1973年
6月6日 在日学徒義勇軍戦没勇士慰霊碑除幕(ソウル国立墓地)
8月3日 金大中拉致事件(東京)、13日に自宅前で発見
1974年
8月15日 朴大統領狙撃事件(文世光事件)で陸英修女史が逝去
1975年
4月14日 川崎支部管内の総連傘下同胞省墓団16人、羽田空港出発
9月3日 沖縄韓国人犠牲者慰霊塔除幕式
1976年
3月12日 中央会館新築、移転
1977年
2月27日 在日韓国青年会中央本部結成大会、尹隆道会長
4月12日 NHKに韓国語講座開設要求の署名運動開始
1978年
2月8日 在日本韓国YMCA新会館起工式
1979年
10月26日 朴大統領、金載圭中央情報部長に被殺、追悼談話
1980年
5月18日 光州事態発生
1981年
1月9日 国民年金要望署名簿10万4千人分を厚生省に提出
9月30日 第84次IOC総会、第24回夏季五輪大会をソウル開催に決定 11月3日 在日韓国学生会結成大会、鄭冨相会長
1982年
6月11日 全国地方団長及び中央傘下団体長会議、外登法改正法案の是正運動、ソウル五輪大会在日韓国人後援会結成
1983年
8月1日 中央執行委員会、指紋押捺・常時携帯制度廃止100万人署名運動決議、9月1日に開始、10月1日に自転車隊出発
11月28日 指紋制度廃止の100万人署名運動目標達成
1984年
6月8日 婦人会幹部、国連本部にサハリン残留韓国人帰還請願
9月6日 全斗煥大統領訪日、天皇が「過去の韓日関係は遺憾」と表明
1985年
5月28日 中央執行委員会、指紋留保運動を決定
1986年
11月5日 民団創団40周年記念式典、約3千人参加
1987年
11月16日 第1回海外韓民族代表者会議(東京)、世界31カ国300余人参加
29日 大韓航空爆破事件
1988年
2月25日 盧泰愚第13代大統領就任式
9月14日 ソウル五輪開幕
1989年
1月12日 在日同胞2世李良枝が芥川賞受賞
1990年
3月24日 盧泰愚大統領、日本公式訪問、25日に韓国国家元首として初めて国会で演説、同日民団が訪日歓迎レセプション
1991年
1月10日 海部首相が韓国訪問、盧大統領と首脳会談。韓日外相「韓日覚書」署名、指紋制度の2年以内廃止を確認
3月11日 第41回世界卓球選手権大会、南北単一チーム歓迎・応援問題で総連と会合、22日に共同会見「共同歓迎委員会」発足発表
11月1日 協定永住・特例永住を一本化した特別永住制度開始
1992年
4月21日 尹奉吉義士殉国記念碑除幕式(金沢市)
1993年
1月8日 改正外登法施行
30日 講座制民族大学「大阪教室」開講
1994年
3月24日 金泳三大統領日本訪問、民団歓迎レセプション
4月20日 第44回定期中央大会、韓国民団に改称、辛容祥団長選出
1995年
1月17日 阪神淡路大震災発生、緊急常任会議で「阪神大震災救援対策本部」設置、19日に全国組織から救援物資が現地到着
2月6日 辛団長、兵庫県災害対策本部に義援金5千万円伝達
1996年
5月31日 02年サッカーワールドカップが韓日共催に決定
10月26日 創団50周年記念中央大祝祭、約2万人参加
1997年
2月12日 北韓の黄書記、北京の韓国大使館に亡命申請
12月5日 本国金融危機で外貨送金運動
1998年
2月25日 金大中第15代大統領就任式
10月7日 金大中大統領が国賓として訪日
1999年
7月21日 韓国人原爆犠牲者慰霊碑が平和公園内に移設
2000年
6月15日 南北首脳会談で共同宣言
9月15日 シドニーオリンピック南北選手が同時入場
12月10日 金大中大統領がノーベル平和賞受賞
2001年
8月23日 オリニ・ソウルジャンボリー開催
2002年
5月31日 韓日共催サッカーワールドカップ開幕
2003年
6月3日 脱北者支援民団支援センター設立
6月6日 盧武鉉大統領訪日、在日韓国人への地方参政権の実現要求
2004年
10月8日 日本弁護士連合会、外国人人権基本法を提起
2005年
10月4日 ソウルで初の民団写真展
11月23日 在日韓人歴史資料館オープン
(2006.8.15 民団新聞)