掲載日 : [2006-09-27] 照会数 : 12865
〈物〉が語る歴史 第3部⑤ 生活必需品のヨガン
[ 金慶子さん(埼玉)が寄贈した蓋つき金属製のヨガン
] [ 鄭大聲さん(東京)の祖母が42年の来日時に持ってきた ]
劣悪な住宅事情に起因
今年2月より在日韓人歴史資料館で研究員として働くこととなり、展示品一つひとつを丁寧に見て回った。写真でしか見たことのなかったもの、資料館で初めて目にしたものなどさまざまであったが、中でも目に付いたのはヨガンであった。
館長は展示室にあるヨガンを指して「これ何か解る」と私に聞いたが、答えることはできなかった。お香を入れるもの、小物入れなど的外れな答えをした記憶があるが、館長の解説からそれがヨガン、つまりは「おまる」であることを知った。どうしてヨガンが家の中にあるのか、という問いに対し、解放前の朝鮮人の住宅事情が関係しているのだと答えてくださった。
その後、資料館の来館者に対し、ヨガンを説明するたび、「え、おまるですか」と皆口をそろえて驚く。中学生や小学生は「おまる」自体を知らないということが多かった。それではなぜ、朝鮮人の住宅にヨガンがあったのだろうか。
韓国併合を機に朝鮮総督府は、土地調査事業をはじめ朝鮮人から土地を奪った。土地を奪われた農民は、北部は中国東北地方と沿海州へ、南部は日本へ生活の糧を求めて故郷を離れざるを得なくなった。1930年代に入ると、日本への渡航制限が緩和され、このような朝鮮人がますます増えていった。
渡航に際し朝鮮人は、日本での身元引受人が必要であったため、先に渡航していた親戚や知り合いを頼っていった。朝鮮人の多くは河川敷や埋立地、「不良住宅地区」にバラック小屋を建て、集住地区を形成した。ほかにも土地の所有が明確でないところ、湿地など住宅条件が悪いところ、飯場跡をそのまま使い、あるいは自力で家を建立した。
集住地は全国に点在し、東京都内で例を挙げるならば、深川、芝浦、荒川、調布などであった。当資料館の展示室には多摩川べりでの砂利採取場のジオラマがあり、当時の様子そのままを再現している。
朝鮮人集住地は下水・上水設備が整っておらず、共同便所も一つか二つしかなかったため、衛生的にも問題であった。そのような状況でヨガンはなくてはならない必需品であったのだ。小さなヨガンひとつが、当時の住宅事情を象徴しているといえる。
(在日韓人歴史資料館研究員・崔誠姫)
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(2006.9.27 民団新聞)