苦闘3年で全国組織化
10月3日で中央本部が結成されて60周年を迎えた。結成のために東奔西走した1世世代から日本生まれの2、3世へと世代交代が着実に進む一方、歳月の流れは60年におよぶ歴史を風化させつつある。今年「還暦」を迎えるのは中央以外に7地方あるが、どのような紆余曲折を経て、産声をあげたのか、「民団50年史」などを参照しながら、それぞれの結成前夜や草創期の苦難にスポットを当てた。
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中央本部 (10月3日)
1945年8月15日の祖国解放直後、日本には230万人もの同胞がいたが、翌年3月には65万人まで減少した。たった半年ほどのあいだに200万人近くが帰国したことになる。
当時の同胞は、徴用などにより日本各地の炭坑、トンネル、鉄道、河川工事や軍需工場に動員され、明日をも知れぬ苛酷な生活を強いられていた。帰国を急ぐ同胞の姿は、解放をどれほど待ちわびていたかを、雄弁に物語っている。
一方、日本に残った同胞は、各地で帰国事業や生活権の獲得に奔走し、全国各地に自治団体を組織し、帰国事業などを推し進めた。組織の数は300余と言われるが、はっきりした数字はわかっていない。
これらの組織を糾合して45年10月15日に結成されたのが「在日本朝鮮人連盟(朝連)」である。朝連に属する青年らは、新しい国家を建設するために、若い力と知識などを集めようと組織化を始めた。
ところが、朝連は共産主義者の金天海らと日本共産党の指導によってたちまち左傾化していった。青年らは左傾化を深める朝連に対し、「思想的に傾くべきでない」と訴え、抗議のため朝連の第1回中央委員会に乗り込んだが、多勢に無勢で会場から追い出された。 「このままではいけない」と、新しい組織の結成を急いだ青年らは45年11月16日、東京・新橋に3000人が集まり、「朝鮮建国促進青年同盟(建青)」を結成した。大会には青年だけでなく、朝連に反対する人も多く集まった。
建青は全国組織化を急いだが、各地で朝連との衝突が引き起こされた。朝連は、建青を「反動分子」と非難し、組織つぶしにかかったためだ。そのために朝連は「特別保安隊」という専門チームまで作った。兵庫県では特に衝突が激しかったと言われている。
当時、建青は東京・青山の旧陸軍大学跡に本部を置いていた。3階建ての屋舎の2階までを建青が使用し、3階には朴烈氏(24年2月15日に爆発物取締罰則違反で起訴され、25年5月2日に天皇暗殺を企図した大逆罪とされた。26年3月25日に死刑判決。4月5日に恩赦で無期懲役に減刑後、敗戦後の45年10月27日に出獄)が委員長を務める「新朝鮮建設同盟(建同=46年1月20日結成)」が入っていた。
建青と建同は、朝連に対抗する自由民主主義に則った真の大衆組織を作ろうと、20団体余を結集した。こうして結成されたのが「在日本朝鮮居留民団」であった。
結成大会は46年10月3日、東京・日比谷公会堂に全国からの代議員218人と各団体の代表者ら約2000人を集めて開かれた。大会では朴烈氏を団長に選出、「当面の難局を突破しよう」との宣言書を採択した。
同宣言書には、「わが同胞が帰国する日まで」と帰国を前提とし、「一致団結してわれわれの義務を忠実に行う」としている。その上で、①在留同胞の民生安定②在留同胞の教養向上③国際親善をそれぞれ期すると、目的を明らかにしている。 また、「決してある思想や政治団体でなく、また本国あるいは海外のいかなる思想や政治の主流にも偏らず、その中のひとつを支持したりこれに加担しない」と、中立・自主性を強調している。 創団当初からのこの考えは、現在まで引き継がれている。今の綱領には権益擁護、経済発展が加わったものの、民生安定、教養向上(現在は「文化向上」)、国際親善は創団以来、民団の活動目的を示すものとして受け継がれている。
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地方本部結成
中央本部の結成後、46年中に7地方本部が次々と誕生した。
西東京本部(10月27日)
朝連結成後の10月25日、後に建同の初代委員長に就任する朴烈氏は、朝連三多摩本部委員長と同調布・府中連合支部の委員長らに、46年3月初旬の同支部解散と合わせて建同三多摩本部結成を提案、合意を得た。こうして46年4月1日、1000余人の管内同胞と朴烈委員長らを迎え、建同三多摩本部が設立された。
民団中央本部が結成されると、三多摩地区の建青と建同は10月27日、朴烈出獄1周年記念歓迎祝賀会を開催した後、全国に先駆けて民団地方本部の結成総会を開き、金鍾在初代団長を選出した。
長崎県本部(11月7日)
45年12月に朝連長崎県本部を組織した趙連委員長らは、46年2月に朝連の第2回中央委員会に参加した。ところが、朝連が共産主義的色彩を帯びていることを確認するや、長崎県本部を解体し、5月に福岡で建同福岡県本部を結成した。
朝連を追放された趙氏は6月に民団県本部結成準備委員長に選任されたが、準備期間中に朝連の青年10人に拉致、監禁される事件が起きた。趙氏は米軍政当局により釈放され、初代議長、2代団長を務めた。この事件で朝連県本部の委員長ら16人が不法監禁罪で逮捕された。
神奈川県本部(11月15日)
朴魯禎氏が中心となり、建同、建青を基盤として川崎で誕生した。当時、朝連との組織力では圧倒的に劣勢だった民団陣営にとって、大衆基盤の強化は焦眉の課題であった。日を増すごとに共産主義的傾向を強める朝連に「在日同胞を任せてはいけない」という必死の思いが、同胞を結集させる拠点として支部の結成に力量を集中させた。 51年に現在の横浜に事務所を移転、本格的な運動を展開し始めた。その年に団員が大和町で民戦のテロにより集団暴行を受ける「大和事件」が起きた。民団の一致団結に拍車がかかった。
新潟県本部(11月15日)
本部結成後、支部の結成に着手しようとしたが、道のりは容易ではなかった。朝連が昼夜を問わず、悪辣で執拗な妨害活動を繰り返したためである。
支部結成時には、県下の盟員数10人を動員して会場周辺で妨害活動を始めた。団員の奮闘だけでは妨害を防止することができず、警察力を動員して結成にこぎつけた。その後、順次11支部の結成を果たした。
また、59年から始まった北韓への「北送事業」を阻止する最後の砦として、重責を担ってきた。
福岡県本部(12月19日)
第2次大戦当時、福岡には八幡製鉄所を中心にした北九州工業地帯と筑豊炭鉱に、数多くの徴用同胞がいた。祖国が解放されると、帰国しようとする同胞が全国から博多港に押しかけた。
これら同胞を政治的に利用しようとする朝連の策動で、港付近は一時期完全な無法地帯と化した。日本当局の事情により、帰国船の出港地が山口の仙崎港に変更された後も朝連の妨害は収まることがなかった。そのため、福岡市での結成大会開催は不可能となり、小倉市(現在の北九州市)の小学校で結成大会を開いた。
兵庫県本部(12月25日)
左傾化する朝連に対抗して建青兵庫県本部を結成した玄孝燮委員長(中央本部副委員長を兼任)は、解放前から独立運動に献身してきた。
建同の朴烈委員長が建青との提携による民団結成を提起するとこれに積極的に呼応し、建同の元心昌副委員長とともに関西地方での民団結成の準備活動を推進した。
結成準備委員長になった玄氏は、神戸市内で開かれた結成大会で初代団長に選出され、5代まで在任したが、中央本部に出張中の49年1月13日、朝連が創立した在日朝鮮民主青年同盟(民青、47年3月6日結成)の組織部長、張基榮によって東京で暗殺された。
佐賀県本部(12月25日)
結成当時について、全寿宏元団長(89歳)は次のように述懐した。
「初代団長となる南亀封氏、金道隆氏ら有志が同胞に呼びかけ、団結目的の会合を頻繁にもつようになった。46年に大分で開催された九州管内の朝鮮人大会に佐賀から非共産系4人と共産系数人が参加した。
金天海氏が登壇し、共産色が顕著になるにつれ、『大変な混乱が起こる』と指摘を受け、宿舎に戻った。すると『共産系が押しかけて暴力行為があるので避難すべき』との情報が入ったため、宿舎を出た。
以後、朝連の中で非共産系と共産系の反目、対立が起きるようになった。民団結成までの争いは、嫌がらせが多く、非共産系の経営する店の前に糞尿を撒いた事件が特徴的だ」。
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49年までに48地方本部
70年の沖縄県本部誕生で 全都道府県に民団創立
47年に入ると、大阪府本部(1月5日)を皮切りに、京都(同10日)、東京(2月28日)、栃木(3月1日)、岩手(同5日)、山梨(4月28日)、千葉(5月17日)、山形(同20日)、秋田(7月5日)、静岡(8月8日)、茨城(9月28日)、愛知(10月15日)、福島県本部(同20日)など13地方本部が誕生した。
48年には、広島(2月6日)、大分(3月1日)、宮城(同7日)、富山(4月1日)、青森(同6日)、和歌山(同8日)、埼玉(同23日)、愛媛(同23日)、群馬(5月2日)、北海道(同10日)、岐阜(7月14日)、三重(同20日)、鳥取(8月7日)、徳島(9月1日)、熊本(同21日)、福井(同28日)、奈良(10月1日)、滋賀(同5日)、宮崎(同19日)、長野(11月10日)、山口(12月7日)、岡山(同月21日)など22本部が続々とうまれた。46年から48年までの3年間で合計42地方本部となり、民団の体制がほぼ固まった。
さらに、49年は島根(3月10日)、高知(11月15日)の2地方、50年は石川(1月16日)、対馬島(同18日)、鹿児島(2月15日)、香川(3月3日)の4地方で本部が結成され、合計48地方本部となった。
その後、70年11月28日に沖縄県本部が誕生し、全都道府県に在日同胞の拠点となる民団が創立された。
1945年 | 10月3日 | 中央本部 |
1946年 | 10月27日 | 西東京本部 |
11月7日 | 長崎県本部 |
11月15日 | 神奈川県本部 |
11月15日 | 新潟県本部 |
12月19日 | 福岡県本部 |
12月25日 | 兵庫県本部 |
12月25日 | 佐賀県本部 |
1947年 | 1月5日 | 大阪府本部 |
1月10日 | 京都府本部 |
2月28日 | 東京都本部 |
3月1日 | 栃木県本部 |
3月5日 | 岩手県本部 |
4月28日 | 山梨県本部 |
5月17日 | 千葉県本部 |
5月20日 | 山形県本部 |
7月5日 | 秋田県本部 |
8月8日 | 静岡県本部 |
9月28日 | 茨城県本部 |
10月15日 | 愛知県本部 |
10月20日 | 福島県本部 |
1948年 | 2月6日 | 広島県本部 |
3月1日 | 大分県本部 |
3月7日 | 宮城県本部 |
4月1日 | 富山県本部 |
4月6日 | 青森県本部 |
4月8日 | 和歌山県本部 |
4月23日 | 埼玉県本部 |
4月23日 | 愛媛県本部 |
5月2日 | 群馬県本部 |
5月10日 | 北海道本部 |
7月14日 | 岐阜県本部 |
7月20日 | 三重県本部 |
8月7日 | 鳥取県本部 |
9月1日 | 徳島県本部 |
9月21日 | 熊本県本部 |
9月28日 | 福井県本部 |
10月1日 | 奈良県本部 |
10月5日 | 滋賀県本部 |
10月19日 | 宮崎県本部 |
11月10日 | 長野県本部 |
12月7日 | 山口県本部 |
12月21日 | 岡山県本部 |
1949年 | 3月10日 | 島根県本部 |
11月15日 | 高知県本部 |
1950年 | 1月16日 | 石川県本部 |
1月18日 | 対馬島本部 (現在連絡事務所) |
2月15日 | 鹿児島県本部 |
3月3日 | 香川県本部 |
1970年 | 11月28日 | 沖縄県本部 |
(2006.10.4 民団新聞)