戦犯刑務所で使われたタオル
条理なき3重の「棄民」
1942年5月、陸軍省は捕虜の監視と取締りのため、朝鮮全土から3223名の青年を釜山に集め、臨時軍属教育隊(通称「野口部隊」)を編成した。
約2ヶ月間の厳しい軍事訓練の末、3016名を俘虜監視員としてタイ、マレー、ジャワ等の俘虜収容所に派遣する一方、「俘虜処理要領」を発表し、連合国白人俘虜の強制労働を取り決め、悪名高き泰緬鉄道や軍用飛行場の建設にあたらせた。
軍上層部の、ずさんかつ無謀な計画はそれを実行しようとする現場を苦境におとしいれ、膨大な数の死者と地獄絵図を生んだ。
上官の命令は天皇の命令という指揮系統の下で、何らの権限も持たない朝鮮人軍属たちは、上からの非道な命令を実行するしかなく、命じられるままに俘虜を過酷な労働に追いやらざるを得なかった。医薬品や食糧の慢性的な不足の中、病気や怪我、食糧不足に苦しむ俘虜の憎悪は、日常的に、また直接関わっていた監視役の朝鮮人軍属に集中した。
各地の連合国裁判の結果、148名の朝鮮人に有罪判決が下され、うち23名の死刑が執行された。
このタオルはジャワの俘虜監視所に配置され、1946年の英国による戦犯裁判で懲役10年の有期刑判決を受けた金完根さんのものである。金さんはシンガポールのチャンギー刑務所にはじまり、オートラム刑務所を経て、スガモプリズンを1952年に仮釈放された。「L508」はオートラムでの囚人番号で、獄中でこのタオルを使用していた。金さんはほころびをなんどもつくろいながら、釈放後もこのタオルを大切に保管してきた。
日本政府は、旧軍人・軍属及びその遺族に対する補償等の諸措置を成立・実行させていったが、1952年のサンフランシスコ講和条約による日本国籍喪失を理由に、韓国・朝鮮人「戦犯」らを同措置から除外し、釈放後はまさに身一つで異国に放り出した。
援護・補償からは一切排除され、また、祖国から、そして在日同胞からも「対日協力者」「親日派」の汚名のもとに切り棄てられた元「戦犯」たちの、戦後60年もの間の苦悩はどれほど深いものであったろうか。
彼らは、まさに孤立無援のなか、2名の自殺者と2名の精神障害者(この2名は戦犯となったことで発病し、釈放されてからもついに一歩も社会にでることのないまま精神病院で生涯を閉じた)をも出しながら、「同進会」という互助組織をつくり、日本政府に対し、謝罪と補償を求めて必死の闘いを展開してきた。
金完根さんのこのタオルは、戦争中また戦後と継続する国家としての責任の所在を問いかけるものである。
私たちは、大本営の国策遂行のはてに、末端においてその戦争責任を肩代わりさせられた148名の韓国・朝鮮人「戦犯」たちの犠牲と闘いの歴史を心に刻むのみならず、われわれ自身の無関心が彼らを「棄民」に追いやったという現実からも目を背けてはならないだろう。
(在日韓人歴史資料館研究員・尹義善)
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(2006.10.18 民団新聞)