掲載日 : [2006-10-18] 照会数 : 9907
国連事務総長、潘基文長官の生い立ち
[ 長男の潘基文氏(中央後)は神童として知られ、学校で弟妹らは「基文の弟(妹)」と呼ばれた ]
「戦災で荒廃していた韓国で生まれ育った私が今日ここにあるのは、国連が暗黒の時期(韓国戦争)に助けてくれたから」。13日の国連総会で第8代国連事務総長に選出された潘基文・外交通商部長官は指名受諾演説でこう語った。来年1月から5年間の任期。「世界の顔」となった潘氏の生い立ちを紹介する。
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常にトップの成績
抜群の英語力
1944年、忠清北道の陰城郡で生まれた。小学1年生のときに忠州に移り住んだ。学校の成績は常にトップで、信頼も厚く、いつも学級委員に選ばれるなど神童ぶりを発揮した。4男2女の長男だったことから、弟や妹は皆、学校で「潘基文の弟(妹)」と呼ばれたという。
潘氏の英語能力はつとに知られていたが、その実力の基礎をつくったのは中学時代だった。忠州中学の英語教師がその日に習った英語をノートに10回ずつ書く宿題を出したおかげで、英文を丸暗記できた。
また、幸運だったのは、近くの忠州肥料工場に米国人のエンジニアとその家族20人ほどが暮らしていたことだった。夫人たちが順番に英会話の指導をしてくれたおかげでメキメキ力をつけた。
並はずれた英語の実力から、高校2年のときに赤十字社が主管する「外国人学生の米国訪問プログラム(VISTA)」に出場し、みごと韓国代表4人の1人に選ばれた。当時、「故郷の誇り」であるとして、忠州市では大騒ぎになった。
翌年、高校3年の夏に1カ月間、米国を訪問することになった。米国人へのおみやげにと、忠州女子高校の生徒たちが絹製の小さな福チュモニを作ってくれた。この時、忠州女子高の学生会長としてみやげ物を持参した女学生こそ、伴侶となる柳淳沢さんであった。
ケネディ大統領と出会い外交官めざす
苦学で道開く
いまひとつ彼の人生にとって貴重な出会いは、ワシントンのホワイトハウスを礼訪したときのジョン・F・ケネディ大統領であった。このときの記念写真を時折眺めては、外交官の道を目指した。
父親の明煥氏は倉庫業を営んでいたが、50年代末に事業に失敗した。そのため経済的余裕がなくなり、苦学しながらソウル大学外交学科を卒業した。
70年に国家公務員試験に合格。それまで成績は決まって1番だったが、このとき初めて2番になったという。しかし、新人外交官研修を修了する際には再び1番となり、駐米大使館赴任の発令を受けることになっていた。
ところが、彼が希望したのはインドのニューデリー総領事館勤務であった。米国勤務では貯金は難しいが、発展途上国に行けば経済的に余裕が生じ、家族を助けることができると判断したためだ。柳さんとは71年から新婚生活を始めた。
73年、韓国とインドの国交樹立により盧信永総領事がインド大使となったが、後日、回顧録の中で潘氏の英語力、行動力、判断力、誠実さを称えた。その後、盧氏が国家安全企画部長を経て首相になると、儀典秘書官に3級職の潘氏を指名した。続いて87年、理事官(2級)へとスピード昇進した。さらに外交部次官補、大統領府儀典首席、大統領府外交安保首席と順調に昇進し、オーストリア大使を経て2000年に次官となった。
ところが、思わぬ事件が起こった。01年2月、韓露首脳会談の合意文書に、実務者らのミスによりブッシュ政権が破棄を主張していた対弾道ミサイル(ABM)システムの制限に関する文言が挿入されてしまったのだ。韓米間に大きな波紋が広がった。責任を問われ、李廷彬長官と潘次官は更迭された。
その4カ月後、韓昇洙外交部長官が就任し、国連総会の議長になるや、潘氏を議長の秘書室長兼国連代表部大使としてニューヨークに赴任させた。
ここでの仕事が結局、国連事務総長への道へとつながっていった。
盧武鉉政権発足とともに大統領外交補佐官、04年1月から外交通商部長官の職にある。
家族は妻の柳淳沢さんと1男2女の子ども。
(2006.10.18 民団新聞)