掲載日 : [2006-10-25] 照会数 : 7096
核廃絶を唱えた綱領はどこに!?
[ 寄稿核開発は愚かなこと広島の韓国人原爆犠牲者慰霊碑の前では毎年慰霊祭が行われる ]
北核実験と総連指導部
総連綱領 旧7条
われわれは、侵略的軍事同盟と戦争に反対し、原子兵器、水素爆弾、細菌兵器など、いっさいの大量殺戮兵器の製造および使用の禁止とその完全な撤廃を要求し、世界平和のために努力する。
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許されぬ95年の変節 今こそ原点に帰るべき
1995年までの総連(在日本朝鮮人総連合会)綱領には、核兵器の製造・使用の禁止と完全な撤廃を要求するとはっきり記されていた。総連は日本の原水爆禁止運動にも連帯し、同胞被爆者の救済・援護にも尽力しながら、核兵器などいっさいの大量殺戮兵器の製造にも反対してきたはずであった。北韓の核実験に沈黙し暗黙の支持の姿勢を見せているのは、結成時の精神に背くばかりか、一般会員や同胞被爆者への裏切り行為ではないのか。北韓の核実験に沈黙する総連指導部は、北韓政権に盲従するあまり、在日同胞に背を向けてきたことがこの問題からも明らかになる。
結成時綱領は核反対を明記
総連は55年5月25日に結成され、全8条にわたる綱領を採決した。その第7条にはこう銘記されている。
「われわれは、侵略的軍事同盟と戦争に反対し、原子兵器、水素爆弾、細菌兵器など、いっさいの大量殺戮兵器の製造および使用の禁止とその完全な撤廃を要求し、世界平和のために努力する」
文面では明らかに核兵器の製造を否定している。綱領とは組織における憲法であり、組織の存在意義やその目的・目標を掲げる。抜本的な改定は、そう簡単にできるものではない。ところが総連は95年9月、第17回全体大会で綱領を全面的に改定し、こともあろうに7条の文言を「合弁・合作と交流事業を経済、文化、科学技術の各分野において強化し、国の富強発展に特色ある貢献をする」に、そっくり入れ替えてしまった。
つまり、大量殺戮兵器の製造・使用禁止や撤廃の要求を廃棄する代わりに、科学技術交流を通じて、大量破壊兵器の開発に貢献する、と受けとめられても仕方ない文言を盛り込んだのである。
95年とはどのような年だったか。北韓は93年3月に核拡散防止条約(NPT)脱退を宣言(後に保留)し、94年6月には国際原子力機関(IAEA)からの脱退を表明、急浮上した核開発疑惑によって、米国との間で一触即発の事態を迎えていた。同月にカーター元米大統領が訪朝し、金日成主席が核開発計画の凍結を約束、危機はかろうじて収束された。95年はその1年後である。
核開発に伴い180度転換
祖国南北を戦争再発の危機に陥れた直後の全体大会では、むしろ、それまでの綱領7条の精神を再確認すべきであった。それを180度も方向転換させた責任は重大である。
それにしても、綱領で正々堂々と核兵器製造に反対していた組織が、本国の核実験には沈黙するとはどういうことか。そのご都合主義の体質は、古くから強い結び付きがあったはずの日本の原水爆禁止運動や同胞被爆者救済運動とのかかわりの中にも見て取れる。
総連の前身ともいうべき民戦(在日本朝鮮民主民族戦線)は、日本共産党傘下の組織として、日本の階級革命を目指して実力闘争を展開していた。52年の「血のメーデー」「吹田事件」などは朝鮮人が武装闘争の先頭に立っていた。
55年にその路線を転換して日本共産党と組織的に袂を分かち、日本革命ではなく朝鮮革命を領導する朝鮮労働党と共和国政府の政治指導を受けるべきであるとして、総連を結成した。そもそも総連は、在日朝鮮人の生活・権利擁護を謳っていながらも、その結成時から朝鮮労働党の直接的な指導下にあったのだ。
労働党指示で友党くら替え
したがって総連の日本の原水爆禁止運動とのかかわりは、運動をリードしていた日本共産党や日本社会党・総評と、朝鮮労働党との近遠関係がそのまま反映していた。
日本の原水爆禁止運動が組織的に成立したのも55年である。同年8月6日に第1回の原水爆禁止世界大会が開催された。第1回は超党派で開催されたが、運動(組織は日本原水協)はその後日本共産党の影響力が増した。当時の日本共産党は中国共産党寄りで、朝鮮労働党とも友党関係にあった。
例えば59年の年末に、日本原水協が生活困窮被爆者への募金運動を展開したところ、中国から735万円の寄付があり、総連も10万円寄付している。これには、同年から本格化した総連の北送運動に、日本共産党が物心ともに協力していたことも背景にあっただろう。
62年の第8回原水禁世界大会は、ソ連の核実験に抗議せよと要求する社会党・総評系代表と、主流派の共産党系代表が鋭く対立し、反主流派の社会党・総評系代表が退場して分裂大会となった。その後しばらく原水禁大会と組織は分裂状態が続く。
同じ頃、共産圏内部で中ソ対立が激化して日本の原水禁運動・組織にもその対立が反映するようになり、共産党系の原水禁大会には中国代表が出席し、社会党・総評系大会にソ連代表が出席するという状態が60年代後半まで続いていた。その間、総連は朝鮮労働党と同様、組織的には日本共産党に近かった。
ところが68年8月、訪朝した日本共産党代表団と、青瓦台襲撃事件などの過激路線をとる朝鮮労働党との路線対立が決定的となり、日本共産党と朝鮮労働党との交流が断絶する。すると翌69年、朝鮮労働党は日本社会党に交流を呼びかけ、両党は一気に友党関係になる。総連も日本共産党に代わって日本社会党との交流を深めていくことになった。
70年代に入ると、社会党・総評系原水禁組織と朝鮮労働党及び総連との結び付きを物語る事例が散見できるようになる。
73年5月、社会党系マスコミ組織の招きで来日した北韓の朝鮮記者同盟の代表団が広島の原爆慰霊碑に参拝し、9月には総評の招きで来日した朝鮮職業総同盟の一行が広島・原爆資料館などを見学した。どちらの来日にも総連関係者が深くかかわっていたことは言うまでもない。北韓の代表たちは、原爆資料館で被爆の惨状を目の当たりにしたはずだ。
被爆同胞にも冷淡な総連
日本の原水禁組織や行政による韓国・朝鮮人被爆者への対策はほとんど進展していなかった。在日組織もなかなか本格的に取り組めなかった。その理由の一つが、同胞被爆者の正確な人数など、実態が把握できないということである。
例えば広島では、被爆当日に道路工事などのために8万人の同胞がいたという証言があるが、正確な人数は未だに不明だ。同胞被爆者への調査を組織的に始めたのは、記録の上では73年7月に「同胞の被爆記録づくり」を始めた民団広島県本部(当時=姜文熙団長)が最初である。
朝鮮籍の李実根氏が自身の被爆体験から75年に朝鮮人被爆者協議会を立ち上げ、独自に同胞被爆者の実態調査を進めていたが、総連が組織的に被爆者調査の準備を始めたのは77年になってからである。78年には総連の韓徳銖議長が広島で「朝鮮人被爆者問題は単なる同情や哀れみの対象ではなく、かつての戦争に対する日本政府の補償の義務ととらえるべき」と発言した。
この発言の背景には、韓日両政府の合意に基づいて、在韓被爆者の渡日治療が進展していたこともあった。総連が本気になって同胞被爆者の実態調査を行ったのは、79年11月の日弁連や日本の進歩的文化人との合同調査が実質的に最初である。朝鮮労働党が国内の被爆者実態調査を始めると表明したのは、やっと81年7月になってからである。
80年代後半になると、北韓は「朝鮮半島・非核地帯創設」を盛んに言い出すようになり、同胞被爆者への関心も一見高まったかに見え始めた(総連も同様)。ところがそれは、90年代初頭からの核兵器開発のカモフラージュであったことが、今になって判明した。
91年6月、社会党系の原水禁国民会議の北訪問団に平壌で同胞被爆者を面会させた。北国内で同胞被爆者を日本人と面会させるのは初めてのことだ。被爆者を登場させて北韓が唱える韓半島非核構想に現実味を持たせようとしたのだ。
しかし同じ6月、IAEAの核査察を北韓が受け入れるかどうかで揉め始めており、韓国の月刊誌は「平壌郊外で核兵器開発のための核処理施設を建設中」という、北からの亡命幹部の発言を掲載した。その後の事態は、同胞被爆者を核兵器開発の隠れみのに使ったことを証明しただけだった。その演出に社会党系訪朝団が使われた。「被爆者への同情や哀れみ」を政治利用したのは北韓政府のほうだった。
反戦・反核は在日の願いだ
01年8月9日、長崎原爆で亡くなった韓国・朝鮮人の犠牲者追悼早朝集会(長崎朝鮮人の人権を守る会主催)が開かれた。そこで、総連長崎県本部委員長とともに参席した県朝鮮人被爆者協議会の朴ミンギュ会長は、原爆の実相を訴え続けた在日韓国人被爆者の徐正雨さんがその年の2月に亡くなったことに触れ、「生きている限り、反戦・反核、民族統一に努力することを誓う」と述べた。総連同胞にとっても、これが本音であろう。
総連指導部が結成綱領の7条を廃棄したタイミングは、いかなる弁明を試みようとも、北韓の大量破壊兵器製造に追従し、与するために変節したことを否定できない。であれば、旧7条を読み返せという主張にはすでに意味がないのか。しかし、在日同胞を取り巻く状況は、その変節を許さないことを知らねばならない。
(2006.10.25 民団新聞)