掲載日 : [2006-11-01] 照会数 : 7115
<寄稿>サハリン朝鮮民族残したい生活史
[ 池田貴夫(北海道開拓記念館学芸員) ] [ 日本領時代からシャクフテルスクに暮らすハラボジ(左) ]
池田貴夫(北海道開拓記念館学芸員)
食・精神文化を維持
衣・住は伝統継承に陰り
02年の夏、私は先住民族文化の調査を目的に初めてサハリンを訪れた。ユジノサハリンスクでは朝鮮人バザールに何度か足を運んだ。
周知のとおり、第二次世界大戦以降、多くの朝鮮人がサハリンに残され、今でも当事者やその末裔がサハリンに暮らしている。私は、サハリンの朝鮮人がどれだけ朝鮮半島文化を継承しているのかといった個人的興味から、バザールでキムチなどを売るおばあさんに日本語で訪ねてみた。
おばあさんは、ソ連時代にも、臼と杵を使って餅をついたこと、日本時代にはモノを頭の上に載せて運んだことなど、暮らしの思い出を語ってくれた。
私は、帰りの飛行機の中で考えた。これまで、日本、ソ連、ロシアとめまぐるしい体制変化の中で、実際の暮らしはどのようなものだったのか、また祖国の文化をどのように受け継ぎ、また消失させてきたかといった研究は皆無であった。そのような生活実態を聞くことのできる時間は、そう長く残されていない。今やらなければ、サハリン朝鮮人の文化史は、世界史に記録されないまま、闇の中に消えるであろう。
帰国し、国立民族学博物館とも連携し、03年秋に「在サハリン朝鮮民族の異文化接触と文化変容に関する基礎的研究」というテーマで科学研究費補助金を申請した。この研究が採択されたのは04年春であった。
以後、今年にかけてサハリン州郷土博物館ほか様々な機関、個人の方々の支援を受け、日本時代から現在に至る衣食住生活、行事や信仰、言語、社会生活、民族技術、民族知識などの変遷について聞き取り調査を行ってきた。結果、サハリンや帰還者の住む韓国安山市において、約30名の方々から情報を記録することができた。
今年の9月30日には日本・韓国・ロシアの研究者による国際フォーラム「サハリン朝鮮民族の生活文化〜日本、ソ連、そしてロシアへ〜」を開催し、調査の成果を発表した。
失われた文化は少なくない。頭上でモノを運ぶ習慣は、日本時代にはまだ見られたが、朝鮮人がロシア人とともに暮らすようになり、急速に行われなくなっていったようだ。韓国の伝統的な暖房設備であるオンドルを自宅に取り入れようと試みた人もいたらしいが、物理的な理由からか、失敗したらしい。
一方でゆずれないものもあった。ソ連時代に至っても、日本時代を経験した多くの朝鮮人が臼と杵を使って餅をつき続けていたことには驚いた。サハリンでは、餅米はとれない。それでも、わざわざウズベキスタンの朝鮮人が生産していた餅米を何とか取り寄せて、餅をつき続けてきたのだった。
また、ロシア人の墓は亡骸を埋めた盛り土の後ろに石碑を立てるが、朝鮮人の墓は盛り土の前に石碑を立てる朝鮮半島方式である。これは、現在に至るまで一貫して守られているようだ。さらに、還暦の行事も韓国方式で行われ続けてきた。
このように守り続けられてきたのは、食文化や精神文化に関するものが多く、住生活、衣生活などにおいてはその継承は難しかった。
そして、再び韓国との交流の時代が始まった。今や、ロシア語しか話すことのできない若い世代でも、お祝いの日には一度は失った文化であるチマ・チョゴリ、パジ・チョゴリの服装でユジノサハリンスクの街を歩く姿が見られるようになったという。
05年10月18日、私はサハリンでの最後の夜に、お世話になった朝鮮人や郷土博物館の方々と食事をともにした。その時、朝鮮人の方から、きつくお叱りを受けたことを思い出す。その日、小泉純一郎前総理が靖国を参拝したからであった。
私は、ここで靖国参拝の是非を問うつもりはない。強調したいのは、そのようなことを気にしている方々が、日本の北にもいらっしゃるということである。アジア関係というと、日本人の目線は韓国や中国など、西南に向く。しかしながら、民族学的にみれば、アジア関係というものは、世界各地に散在しているのである。
(寄稿・写真も)
(2006.11.1 民団新聞)