掲載日 : [2006-12-06] 照会数 : 10547
パッチギプロレスラーの金一 自伝出版記念会
原爆頭突き3万発 プロレスラーの金一
追悼の会と合わせて 13日、東京で
裸一貫で英雄に
在日同胞にも感動と勇気
『大木金太郎自伝 原爆頭突き3万発』の出版記念会が13日、追悼の会と合わせて東京で開かれる。韓国の日刊スポーツに今年連載された「私の生き様、私の挑戦」をもとにした自叙伝だ。
パッチギ(頭突き)一つで韓国国民の英雄になったプロレスラー金一は、同書の韓日同時出版に合わせ、来日する矢先の去る10月26日、ソウル乙支病院で77年の波乱万丈の人生を終えた。
韓国がまだ貧しかった60〜70年代、相手の反則技で鮮血に染まった額を繰り出し、豪快なパッチギで巨体を倒して国民を熱狂させた金一は、40代以上の韓国人なら誰もが鮮明に覚えている。
1929年、全羅南道高興の貧しい農家の長男に生まれ、当時としては大きい180㌢の壮健な体で、シルム選手としてあらゆる大会を席巻した。力持ち少年は、日本の雑誌で力道山を知り、56年に日本に向かった。
密入国のため約1年間収容所暮らしをした金一はその間、わらをもつかむ気持ちで力道山に手紙を送った。金一の情熱を込めた手紙が偶然、力道山の目にとまり、彼の身元保証で晴れて出所した。
翌年の57年、金一は力道山のもとに弟子入りし、「必殺技」のパッチギを身につける。咸境道出身で平壌パッチギの威力を知り尽くしていた力道山は金一に、「お前は朝鮮人だからパッチギを覚えなさい」と勧めた。裸一貫で渡日し、「民族の武器」とも言うべきパッチギを磨き、人気レスラーへと成長する彼の姿に、多くの在日同胞が勇気づけられた。
しかし人生を変えた師・力道山は、63年12月、金一がアメリカLAで生涯初の世界チャンピオンに輝かやいた時、暴漢の刃に倒れて生を終える。
韓日通算30余年の現役生活の間、3000余試合を闘った金一は、20回も世界チャンピオンタイトルを手にした。ライバルのアントニオ猪木、ジャイアント馬場との試合は最高の名勝負として記憶されている。
しかし、70年代後半に引退した彼の晩年は平坦ではなかった。87年に妻を白血病で亡くし、軍隊に送った末息子も不意の事故で失った。事業に相次いで失敗し、自身も試合の後遺症で重病を得た。
しかし、病身にもかかわらず、彼は晩年までプロレス復活のために旺盛な活動をした。先月10日には蚕室球場で行われたプロ野球LG−SK戦で始球式を務めた。これがファンの前に姿を現した最後の舞台だった。
追悼の会は東京・赤坂プリンスホテルの「五色の間」で18時から。会費は1万円で、「大木金太郎自伝」が贈呈される。
問い合わせは講談社エディトリアル。℡03・5319・2171
(2006.12.6 民団新聞)