掲載日 : [2006-12-06] 照会数 : 9874
「我が国」と呼べない子どもは!?
[ 大阪市立小学校の民族学級発表会 ] [ 姜誠さん(左)、李正憲さん(右) ]
「教育基本法改定」と在日
日本の国会に上程されている教育基本法の改定案をめぐり、「愛国心」の押し付けや国家主義的色彩が強化されたことに批判が高まっている。日本の学校に子どもたちを通わせる同胞の親たちの不安もつきない。この問題をめぐり、民族教育に取り組む市民運動の立場から意見を寄せてもらった。
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「国家の都合」へ軸足
大きな受難待ち受ける
姜誠(埼玉在住、ノンフィクション・ライター)
かつて哲学者のカントは「モラルを説く政治家は自分の政治のためにモラルを利用する」と警鐘を鳴らした。その伝で行けば、これは明らかな改悪と呼ぶべきだろう。教育基本法の改正である。
たとえば、前文。「われらは、さきに、日本国憲法を制定し、…この理想の実現は根本において教育の力にまつべきものである」という部分がばっさりと切られ、個人の尊重や戦争の放棄を謳った日本国憲法との関連が断たれてしまっている。
代わりに幅を利かせているのが、「我々日本国民は、…国家をさらに発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願う」という、本来の教育とは縁もゆかりもない国家目標だ。
1条の教育の目的でも「個人の価値をたっとび」、「自主的精神に満ちた」国民を育てるという文言が、「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた」国民を育成すると様変わりしている。
他の条文を眺めても「国家」や「公共」がことさらに強調されており、この改正が実現すると、日本の教育は自由で独立した個人を育むことより、国家のために都合のよい個人を生み出すことに大きく軸足を移すことになるだろう。
個人のために国家があるのでなく、国家のために個人が存在する−−。そんな権力者のどす黒い情念すら、この改正案の文面にはちらつく。国旗・国歌法の成立以来、日本の教育現場では日の丸と君が代の強要が続いているが、学校という存在は日本の子どもたちにとって、ますます窮屈なものになってしまうのではないか。
だが、教育基本法の改正でプレッシャーを受けるのは日本の子どもたちだけではない。外国籍の子どもたちにとっても大きな受難が待ち受けている。
もっとも危惧されるのは改正案2条5項だ。教育の目標として、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできたわが国と郷土を愛する」態度を養うという一項が盛り込まれており、日本の学校に通う外国籍児童にもいわゆる「愛国心教育」が行われることになる。
憲法26条にある「教育を受ける権利」は外国籍の子どもたちにも保障されていると考えるべきで、本来なら、日本の学校においてもそのアイデンティティ確立に不可欠な継承語教育や民族教育がカリキュラム化されていなくてはならない。
だが、今回の法改正案からはそうした視点はすっぽりと抜け落ちている。結果として、「日本国家」への忠誠を強要されることになる外国籍の子どもたちのアイデンティティは動揺し、傷つくことになるだろう。
さらに言うなら、外国人学校に通っている子どもたちにも教育基本法の改正は逆風となる。日本政府は外国人学校を正規の学校として認めていない。しかし、世は多文化共生の時代だ。これまでの差別的処遇を改め、外国人学校を日本の教育システムの中にきちんと制度付ける時期に来ている。
ところが、国家の指示や関与が一段と強まりかねない今回の基本法改正案では、教育は国家的な価値に一元化され、多様な教育はむしろ排除されることになるだろう。当然、外国籍の子どもたちの教育の権利を保障する「外国人学校法」や「多文化共生教育法」といった法律の制定も遠のくことになる。
日本の人口が純減する一方で、外国人登録者数は200万人を超えた。教育を受ける権利は国民固有の権利ではない。すべての国家が内国民であれ外国人であれ、教育を提供する義務を負っていると考えるべき時代に、世界は立ちいたっている。
日本人だから、外国人だからというものさしで言っているのではない。個人の価値を損なう恐れがあるだけに、教育基本法の改正にはもっと慎重でありたい。
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多文化共生を封殺 前面に出る「非日本人排除」
李正憲(奈良・在日外国人保護者の会代表)
教育基本法は、日本の教育の基本理念や義務教育、教育の機会均等など盛り込んだ、全ての教育法規の上位に立つ根本法である。1947年施行以来、一度も改正されずに今日に至った同法「改正案」が、今、十分な審議もなく今国会で成立されようといている。憲法「改正」を明言する安部内閣の登場、防衛庁の「省」への「昇格」とあわせて、国家主義的教育への回帰を目論む動きに対する市民、教育団体、労働組合の反発は小さくない。
日本社会教育学会などの学術団体は、「アジア地域の戦争の惨禍についての痛切な反省(中略)平和で民主的な国家、国際社会と共存する国家の構成員として能動的な国民を育成する教育のあり方を示した教育基本法は、古くなったどころか、いまだ道半ばにあるというべき」(2006年9月9日、同学会長意見)として、時代に逆行する国家主義的な動きに警鐘を鳴らしている。
一方、日本社会・市民の反発以上に、在日の我々の警戒心はより深刻である。
もとより、現行の教育基本法の体系そのものは、在日外国人の子どもたちにとって、十分なものであったとはいえない。在日コリアンをはじめ外国人市民の教育については、日本国憲法にも、現行の教育基本法にも何も記されていないのである。
在日外国人教育に関する文科省の対応は、一貫して緩慢であった。数少ない事例として「2005年5月現在、公立の小中高に約7万人、母語は54言語、日本語指導が必要な児童生徒は約2万人」と日本語指導が必要な児童生徒のみが公表されている。そこには、日本の学校への適応能力が必要という視点しかなく、外国人のアイデンティティや母語・文化を大切にするという視点が根本的に欠落しているのである。
解放以来、在日コリアンの民族教育は、日本政府によって敵視あるいは無視され続けてきた。それでも当事者や市民の取組み、さらには韓国政府からの要請や国連など国際社会の監視もあり、実際には、地方自治体独自の外国人施策として多文化共生社会に見合った教育方針を持つ自治体が増えてきた事実があった。
しかし、今回の「改正」案成立によって、地方自治体独自の「外国人教育」が封殺され、後退する懸念が浮上する。これまでも「心のノート」や「愛国心の評価」など、文科省の通達によって、地域の教育委員会が大きく影響されてきた事実を幾度となく経験してきた。
従来のオールドカマーに加えて、グローバル化時代の今、ニューカマーや帰国者を含めて日本の学校には、すでに外国にルーツを持つ子どもたちが多数在籍している。「わが国」とは「日本」のことをさす子どもたちだけではない厳然とした事実が、そこでは一切伏せられたままである。現実を直視せず、事実に則さない「教育改革」を強行することは、国内の教育現場での無用の混乱を招くばかりでなく、今後の国際的な紛争の種ともなりかねないのではないか。
教育法規がその根本から「愛国心」と「非日本人排除」を前面化する議論の現状に、強い不安と苛立ちを覚える。これからの国際化・グローバルな時代には、自己と異なった文明や基本的人権を尊重する教育が求められており、排他的なナショナリズムの強制はあってはならない。
今、求められる教育基本法改正は、国際人権規約や子どもの権利条約など国際人権法に対応した条項の明示であり、在日外国人の教育権を認める方向での法整備こそが求められているのである。
(2006.12.6 民団新聞)