掲載日 : [2006-12-06] 照会数 : 7559
<ルポ>徴用韓国人の遺骨はいま…
朽ち果てる加害の痕跡
徴用韓国人犠牲者の遺骨返還に向け、韓日両国政府の合同調査が続いている。残念ながら日本国内ではこの問題への関心が薄いようだ。夕張では市の事実上の倒産事態の余波で朝鮮人坑夫の墓が忘れ去られようとしている。秋田の小坂鉱山では遺骨の発掘を試みたが、最後まで鉱山側の協力は得られなかった。遺骨問題の解決は重要な人道的問題であり、日本社会が避けて通れない課題のはずなのだが……。
夕張炭鉱
市倒産の余波 廃れる「神霊の墓」
夕張市末広1丁目の東本願寺末寺・照源寺墓地の高台に、街を見下ろして立つ朝鮮人坑夫の墓がある。1930年に仲間が建立し、今日まで80年近くも身じろぎせず、じっと立ち続けてきた。これを「神霊の墓」という。
夕張鉱に朝鮮人労務者が募集で入ったのは1916年。その後、1万2千人が強制連行され、大半が坑内作業に従事させられた。坑内事故が立て続けに起き、犠牲者は17年の2人に始まり翌年8人、その翌年も8人と増え続け、碑建立の30年には79人に達していた。
北海道では1916年の夕張鉱に始まって、1945年8月までに、鉱山ばかりか鉄道、飛行場、軍港、道路建設などの現場に約15万人が強制連行された。労働現場の悲惨さはいまさら言うまでもなく、この怨念は永遠に消えるものではない。同胞犠牲者の霊は全道7カ所の墓碑に祭られている。
ところが、一時は12万に近づいた夕張の人口は、炭鉱の閉山が相次ぐなかで1990年には1万3千人にまで落ち込んでしまった。そしてついに、財政再建団体の申請に至った。その債務は257億円であり、夕張市が責任を負う第3セクターや地方公社の288億円などを合わせると、総額は635億円の巨額になる。
さかのぼれば1889年、国が229万円を投じて起こした北海道炭鉱汽船㈱を、わずか35万円余で民間に払い下げて以来、北炭は70年以上にわたって利益を貪り、それを他に投じながら資本主義社会の頂点でぬくぬく生きてきた。
それを可能にした莫大な利益のなかには、タコと呼ばれた日本人労務者はもちろん、強制連行された朝鮮人労務者の血液がたっぷり含まれている。こうした罪過を厳しく問うこともなく、国は閉山にともなう補償金まで支払った。
夕張市の歴代市長や市議会議員、さらに炭鉱労働組合は、そうした事実を知りながら、旧産炭地域対象の普通・特別交付税、産炭地域振興臨時交付金など、特殊な依存財源の利用や違法なヤミ起債を通じて、莫大な債務を積み上げてきた。
市当局はいわば、市の行政に責任を負うべき人々の共同謀議による破産のその責任を、一般市民に押し被せ、市民の負担で債務を返済しようとしている。生活環境の極端な悪化に耐えられず、市民は夕張からの脱出を図っており、街はやがて廃墟となりかねない。
在日100年の歴史にあって、北海道は九州と並んでもっとも過酷な位置にある。そのなかでも象徴的な存在の夕張市が廃墟化し、強制連行された同胞の屈辱と血と汗、そしてその凝結物とも言うべき「神霊の墓」の記憶が消え去るとすれば、北海道に生まれ育った1人の同胞として、耐え難いものがある。かつて酷使した側の、その後の悪政によって、私たち同胞の苦難の歴史まで埋没させてはならない。
(北海道在住・卞東運氏)
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小坂鉱山
民団側の発掘 企業が冷淡な対応
1944年8月、強制徴用で慶尚北道盈徳郡から秋田県小坂鉱山に連れられた申鉉杰さん(民団埼玉県本部顧問、東松山在住)は当時21歳。17歳の弟さんの身代わりであった。
過酷な労働量に比して与えられた食事はあまりに貧しく、ひもじさに昼の弁当を朝のうちにかきこんでしまった。昼は水をがぶ飲みし、空腹を紛らわせる毎日を送った。毎日のように目の前で仲間が死んでいくのを見て耐えられず、監視の目をかいくぐり死を覚悟して逃げた。1945年7月初めのことだった。
それから半世紀。3度も秋田の現場に足を運んだ。亡くなった同胞のことを思いやってのことだった。当時、韓半島から連れてこられた同胞は300人以上を数えたが、同じ寮で寝食を共にしてきた仲間が戻らないことがあった。事故で死んだのだ。聞いただけでも50数人を数えていた。
申さんは現地で聞き取り調査を重ね、なんとか遺体の埋められたと思われる場所を突き止めた。遺骨を発掘して懐かしい祖国に安置できないか。そう思うと夜も眠れなかったという。申さんから相談を受けて民団埼玉県本部としても協力することになり、鄭平普団長と私の3人で11月の13〜15日の3日間、現地に発掘に向かった。
13日、十和田南駅に着いたら昼を過ぎていた。駅では民団秋田県本部の崔燕佑事務局長と朝鮮人強制連行真相調査団長の野添憲治氏が出迎えてくれた。孫良男民団秋田県本部団長とともに川口博小坂町長を表敬訪問し、現場を訪れた。発掘にあたって再度、鉱山側(現同和工業株式会社)への説得を試みたが、話し合いは不調に終わった。しかたなく、我々は鉱山側の黙認のもと作業を進めることにした。
当日は朝から大雨だった。私たちは大人の背丈ほどに生い茂った熊笹を刈り取って道をつくり、奥深く入っていった。目指す場所には不自然な石塚が置かれていた。現地の住民の話でもお墓に間違いないという。
作業に入ったが熊笹が深く根を下ろしており、作業は困難を極めた。遺骨はいまかと期待しながらかなりの時間をかけて掘り進めたが、なんにも発見できなかった。次の場所に期待して掘ってみたが、やはりなにもみつからなかった。
寒さが身にしみるなか3時間以上にわたる作業だった。60年以上の時間が経過して遺骨は土に還ったと思うほかなかった。聞けば当時は鉱山で死者が出ると、コークス(石炭)で火葬してそのまま土に埋めたのだという。これ以上作業を続けても同じ結果にちがいないと考え、我々は作業を打ち切った。
むなしいやるせない気持ちだった。日本の侵略によって韓半島は植民地化され、罪もない多くの若者たちが強制徴用されて、場所も知らないところであのような無惨な死で終わったのだ。そう考えただけで我々は涙が枯れた。
むなしい半世紀、悲しい1日だった。
(民団埼玉本部事務局長・景民杓)
(2006.12.6 民団新聞)