掲載日 : [2006-12-20] 照会数 : 7372
<06民団総括>民団精神奮起…政治的野欲排除
[ 第60回臨時中央委員会が開かれたが、議場は大混乱となった=6月24日 ]
韓国の葛藤と一線
在日の立場を最優先に
今年の民団を振り返れば、「激動」「多事多難」という言葉が自然と浮かぶ。民団はこの1年、どう動き、何を残したのか、整理する。
■□
5・17声明の本質と正常化運動の立脚点
「連邦制事変」という視点も
韓国で発行されている『月刊朝鮮』の12月号は、「民団内『連邦制事変』鎮圧後」と題する特集を組んだ。「はて、連邦制事変とは?」、「鎮圧とは?」−−団員には耳慣れないこの言葉は、対北政策をめぐる韓国内部の葛藤をそのまま反映したものと見るべきだろう。
「民団・総連5・17共同声明」は前文で、「6・15共同宣言が明らかにした『我が民族同士』の理念にしたがい、民族的団結と統一に向かう民族史の流れに沿って」などと謳い、具体的な合意事項として、「6・15南北共同宣言を実践するための民族的運動に積極的に合流し、6・15民族統一大祝典に日本地域委員会代表団のメンバーとして参加する」ことなどを盛り込んだ。
同誌はこれについて、「朝総連の言う6・15実践は、対南赤化戦略である『連邦制統一』を意味する」とし、民団は「消滅危機に瀕した朝総連と手を握り、大韓民国の赤化を意味する6・15宣言実践を『我が民族同士』の理念に基づいてともに推進しようとした事実が明らかになるや、日本全域の民団地方本部は河丙弾劾を要求して集団反発した」と記した。
「連邦制事変」とは、保守系言論機関が政府の対北融和政策推進や親北勢力の跋扈(ばっこ)する韓国の現状を自嘲的に批判して用いる言葉だ。つまり、民団は北韓・総連の包摂戦略に呑み込まれた、というのである。であれば、「鎮圧」とはもちろん、河執行部を退陣させて鄭進執行部を選出し、組織正常化に踏み出したことを指す。
「民団内連邦制事変」という表現は、いわゆる南南葛藤と呼ばれるイデオロギー闘争に揺れる韓国社会に、「ついに民団までが?」といった衝撃を与えた証であろう。民団社会の一部にも、同様の衝撃が走ったはずだ。
しかし結論から言えば、5・17声明を撤回させ、民団を正常化させようとする運動は、おおやけにはイデオロギー闘争に踏み込まず、在日同胞社会の現状と民団の立場、規約や規定に即してのみ闘うという、韓国内の事情とは一線を画す姿勢で一貫した。
5・17声明発表後、『歪められた韓国像に挑む‐上野・池之端事件にみる在日韓国青年の憤り』(8・13裁判記録刊行委員会)の要約版が、青年会OB有志の名で全国の中央委員や代議員に配布された。
これは1971年の民団混乱事態を引き起こした韓民統(現・韓統連)グループの、その後も継続した民団破壊策動を粉砕すべく立ち上がった青年会の闘争記録だ。この本版の冒頭で当時の張聡明中央団長は、「韓民統とは韓国国民の仮面をかぶった、反韓的で朝総連の先兵的な役割をなす集団であり、彼らの目的が北韓の赤化統一策謀の延長線上にあることは、在日韓国人にとって周知の事実」と書いている。
危機の深層を十分意識した
民団内部に入り込んで5・17事態を主導した現・韓統連グループは、70年代初頭、民団中央執行部を合法的に奪うことに失敗すると、集団暴力を動員して簒奪を企み、敵性団体として民団から排除された。その彼らが30数年の時を経て、合法的な民団乗っ取りに成功した。このことからOB有志は、「連邦制事変」であることを明らかに意識していた。だからこそ、要約版を配布して往時の危機感を呼び覚ますよう訴えたのである。
9月21日の第50回臨時中央大会に向けて、実名・匿名を織り交ぜて夥しい文書が流布された。その1つ、青年会OBでもある民団千葉・市川支部3機関長が実名で出した文書は、痛切な自省の念を込めている。
「6・15南北頂上会談以降、南北交流ムードが高まっていく過程で、『我が民族同士』の理念を掲げる北韓の対南キャンペーンによって、韓国内の親北勢力が勢いづいていた。(中略)先の2・24選挙で朝総連や韓統連など親北勢力は、河氏を当選させるべく総力を挙げた。(中略)しかし、韓統連の集団暴力と直接闘い、身体を張って民団を守ったと自負する私たち青年会の草創期メンバーですら、『韓統連がいまさら。何ができる』と侮っていたし、中央委員・代議員や選挙人のほとんどが韓統連の存在を知らず、知ってはいてもその本質を理解していなかった」。
OB会有志による要約版の配布と同じ頃、密かに回し読みされたもう一つの文書がある。「5・17声明の本当の狙いは何か。カギは北韓の高麗連邦制にある‐北韓の走狗である韓統連からその真相が見えてくる」とのタイトルだ。
この文書はのっけから、「河執行部の韓統連に対する敵性団体規定解除の策動や6・15民族統一式典参加のための4・24提議、民団・総連5・17共同声明発表などの一連の動きは、(中略)北韓の高麗連邦制統一案のプロパガンダと深い関係がある」と切り込んでいる。続いて、韓統連がこの「連邦制による祖国統一」を活動目的にしていることに触れ、こう指弾した。
「『2国家2制度2政府』が果たして統一国家と言えるのか。高麗連邦制は明らかに、民団としても願ってやまない自由民主主義という、人類普遍の価値観による完全統一を阻もうとするものであり、全体主義王朝国家であるがゆえに最貧国となった北韓が、その体制のまま韓国に寄生して生き延び、自己の遺伝子を増殖させやがて韓国を併呑しようとする狙いを込めたものである」。
さらに、6・15共同祝典について、「これを主導する北韓や親北勢力にとって、高麗連邦制のシミュレーションとして大きな意味を持つ。民団・総連5・17共同声明はそうした動きと明らかに連動し、在日同胞社会を踏み台に高麗連邦制の雛形をつくろうとするものだ。北韓と同様、総連も民団に寄生し、組織体質を温存しながら生き延び、あわよくば民団を牛耳ろうとしている」と断じた。
この論理に、全国の少なくない民団幹部たちは、「我が意を得たり」の思いをしたはずである。しかし、正常化運動の過程でその「我が意」は、ほとんど表に出ることはなかった。
非公式の会話ではともかく、各地方本部や中央傘下団体が機関決定に基づいて発表した、5・17声明の白紙撤回、河団長の退陣などを求めた数多くの声明や、それらを集大成した民団正常化推進委員会の文書どれ1つにも、北韓の戦略や連邦制に言及し、イデオロギー論争を仕掛けようとする文言は見受けられない。
大所高所から勢い込んでもよさそうなのに、なぜ、そうはしなかったのか。9月21日の臨時中央大会以降、複数の幹部団員に聞いた話を総合すると、その理由はほぼ次の3点に整理される。
①イデオロギー闘争は事態の本質は突いても、多くの団員には分かりにくい。理念より現実論に立脚すべきだ②突き詰めると、南北トップ初の歴史的会談を経て発表された6・15共同宣言を全否定することになりかねない。それには正直言って抵抗がある③正面切った理念闘争になれば、韓国内の深刻な左右対立に連動してしまう。民団は巻き込まれてはならない。
こうしたスタンスは、民団正常化への目鼻がついておらず、河執行部の出方が明確ではない段階で、早くから定まっていた。そして一貫された。
■□
北韓の恫喝で確信を深める
黙っていられなかったのは北韓である。労働党の統一戦線部が平壌放送を通じて7月18日、総連と民団は「握った手を離すな」などとアピールしたのをはじめ、同20日付の労働新聞は5・17声明の白紙撤回を、「今回の事態は民族の和解と和合、統一を望まない内外の反統一保守勢力の策動がいかに悪辣で破廉恥であるかを如実に示している」と非難した。
北韓ばかりではなく、韓国の親北勢力に近いとされる市民団体や言論機関からも、「民団の本質」や正常化運動を反統一・保守反動と決めつけ、圧力を加えようとする動きがあった。河執行部のもとで発行された民団新聞も、8月15日付の「分派的集団行動を止めよう」と題する社説で、こともあろうに「反国家的反政府的反民団的」との罵りを浴びせたのはよく知られている。
だが、正常化運動を担った幹部団員はもちろん、一般団員たちも、祖国統一と民族和解の流れに逆行する、などのプロパガンダには動じることはなく、はっきり言えば意に介すこともなかった。いずれが反統一で、反民族なのか、むしろ時を追って確信が深まったからだ。
鄭進執行部の誕生後の10月18日付民団新聞は「民論・団論‐『5・17事態』なにを教訓とするか」と題した投稿特集を組んだ。そのなかで、民団東京のある支団長は、「今度の危機が如実に証明するように、民団が本国の政治に関われば、本国の政治的混乱が民団を混乱させ、ひいては本国の政治的混乱に拍車をかける」と指摘した。
5・17事態に対して、団員たちが根底にもっていた心情を端的に示した見解であろう。北韓‐総連&韓国内親北勢力‐韓統連の統一・和解を装った策動に対し、団員たちは本国事情との連鎖を断ち切り、在日同胞生活者の立場を最優先に、民団の土俵でのみ闘ったのである。実に、賢明な選択だったと言えよう。
(2006.12.20 民団新聞)