掲載日 : [2007-01-01] 照会数 : 7350
<寄稿>善隣友好の歴史に学ぶ 金両基
朝鮮通信使400周年輝かそう
記念事業共に祝おう
江戸幕府にとって朝鮮王朝は国書を交わして交流した唯一の国であり、1607年の第1回使節団(朝鮮通信使)が日本を訪れてから400周年を迎える。1607年から1811年まで計11回、両国の国書を持参した朝鮮通信使が往来した。それは江戸幕府時代が鎖国でなかった証である。両国の善隣友好と平和時代の象徴である通信使往来の事実は植民地時代歴史の表舞台から消されていたが、その歴史的評価は日々高まっている。
東海道の発展も
カラフルな民族衣装を着た行列を日本の侍が先導し、太鼓やラッパなどで編成された音楽隊が異国音楽(韓国音楽)を演奏しながら東海道を行く。使節団の一行は毎回異なるが300から500人ほどで編成されていたが、護衛や案内役の侍たちはその数倍にもなり、両者を加えると行列は2000人前後にもなる。歩いたり輿や馬に乗る人もいたが、一人一人の間隔を2㍍に換算しても行列の長さは4㌔にもなる大行列だった。幕府は通信使が往来する都度東海道を整備し、東海道を往来する豪華絢爛なその行列を観る人びとで沿道は埋まり、野宿をしながら行列を追う人たちも多かった。通信使の往来が東海道を国際ロード、歴史ロード、文化ロードに発展させたといっても過言ではない。東海道の沿道にある静岡県・静岡市・彦根市では400周年記念行事を行う。
修好回復の前後はまさに戦争と平和である。1600年、関ヶ原の戦いに勝った直後、徳川家康は密かに対馬藩主宗義智に朝鮮王朝との国交回復を命じた。それは秀吉の朝鮮侵略が失敗に終わった2年ほどのちのことである。秀吉の朝鮮侵略で大きな被害を被った朝鮮王朝は、宗義智の修好回復の懇請に深い疑念を抱き、応じようとしなかった。
秀吉が侵攻する前まで朝鮮が経済支援をしていた対馬藩が、豊臣軍の先兵として侵攻してきたことを恩を仇で返す輩として激怒していた。しかし執拗な懇請に、朝鮮王朝は日本から先に修交回復をもとめる国書をよこし、戦乱中王陵を犯した犯人を差し出せという2つの条件を提示する。対馬藩は修交回復のために改竄(かいざん)した国書と王陵を犯した麻古沙九(まごさく)と麻多化之(またはち)の2人を差し出すが、2人が偽物であることを感づきながら処刑し、日本の実情を探索する目的で松雲大師らを日本に遣わす。家康は松雲大師らと伏見城で会談し、家康は徳川は1人の兵も送らなかったといい、松雲大師は俘虜を1300(?)人を連れて帰国する。
そうした政治的努力の結果、2年後の1607年朝鮮は回答兼刷還使の名目で第1回目の使節団を派遣する。回答とは国書の回答、刷還とは俘虜引き取りであるが、この名称を3回まで使い、4回目から信を通わす使節という意味の通信使にかわる。
図録共同出版へ
駿府城にいた家康は第1回通信使の帰路、一行を駿府城に招いて歓待した。一行が泊まった清水の清見寺には通信使の詩文や絵などの遺物があり、400周年記念事業の1つとして静岡市と釜山市が清見寺図録を共同で出版し、通信使研究に大きな一石を投じる。
善隣友好の象徴である通信使往来の記念事業を、日本市民と在日コリアン(民団・総連)と地方自治体が一緒になって祝うことは、家康の平和外交に応え、温故知新、歴史に学ぶ道でもある。(評論家・比較文化学者)
(2007.1.1 民団新聞)