掲載日 : [2007-01-31] 照会数 : 7036
<朝鮮通信使400周年>朝鮮通信使とは?
[ 朝鮮通信使の道 ]
江戸時代最初の朝鮮通信使(1607年・慶長12)が派遣されてから今年が400周年に当たるが、それ以前、室町時代と安土桃山時代にも朝鮮朝は計5回の通信使を日本に派遣した。
初期の3回は室町(足利)幕府の将軍襲職祝賀や修好のほか倭寇禁圧要請が主な目的だったが、幕府が倭寇禁圧要請に十分こたえられなかったため、通信使一行は大内氏など西国の有力守護大名などとも交流した。このときの通信使は、「通信=信(よしみ)を通じる」という朝鮮朝と足利幕府との友好関係をまだ体現していた。
ところが豊臣秀吉が天下を制覇すると、秀吉は朝鮮国王の服属・入貢を示す使節派遣を周旋するよう対馬藩主・宗義調(そう・よししげ)に命じる。対馬藩は1587年(天正15)外交文書を改竄するなど、秀吉の真意をかくして新政権成立祝賀の通信使派遣を朝鮮側に要請。これにこたえて90年に来日したのが黄允吉、金誠一らの一行である。この使節には秀吉の朝鮮侵略の野望を探る目的もあったが、秀吉の真意を十分に見抜くことはできなかった。
1592年(文禄1)秀吉は朝鮮に15万の大軍を送り侵略を開始した。壬辰倭乱(文禄の役)である。緒戦は攻勢が続いた秀吉軍だが、朝鮮民衆の抵抗、明の参戦、そして李舜臣将軍の水軍などに苦しみ、一旦休戦した。96年、その講和・修好を名目とする通信使が明使とともに来日。しかし秀吉と対面できず、目的は果たせなかった。翌97年(慶長2)、秀吉は再び朝鮮に大軍(14万)を送ったが(丁酉倭乱)苦戦し、98年秀吉の病死で撤兵した。
江戸に幕府を開いた徳川家康は、秀吉の朝鮮侵略で途絶えていた朝鮮朝との関係修復をはかるため通信使の派遣を要請。1607年、江戸時代最初の通信使が来日した。通信使派遣の名目は常に徳川氏の将軍襲職祝賀だが、初期の主な目的は日本の国情探索と侵略で拉致された朝鮮人の送還で、朝鮮側は「回答兼刷還使」と位置付けていた。
江戸時代の通信使は12回派遣され、最後の使節を除き江戸まで東上し、そのうち3回は日光東照宮を参詣している。
一行はほぼ総勢500人前後の規模で、ソウル(漢陽)から釜山まで陸路を進み、対馬・壱岐を経て山陽道各地に寄港しながら大阪まで瀬戸内海を海路で進んだ。大阪で一部を留め置くこともあったが、一行の大半は江戸に向かった。淀川を河川専用の幕府特製・豪華船で遡上し京都へ赴く。美濃までは琵琶湖東岸の中山道(一部はバイパスとして通信使往来専用に作られた朝鮮人街道)を利用し、尾張で東海道に入り江戸に向かった。
通信使に任命された正使、副使、従事官をはじめ、随行した製述官、書記、画員、楽人などは当時の朝鮮朝を代表する学者・文人・芸術家であった。彼らとの詩文応酬などの交流を望む日本人は多く、沿道各地で学者・文人の交流が行われた。 そのときの詩文、墨跡、遺稿、絵画などが各地に数多く現存している。民衆レベルでも通信使の行列は各地で大人気を博し、沿道には見物用の桟敷まで作られた。踊り子の振りを真似た「唐子踊り」が各地に伝えられたり、川越では通信使の衣装を模した仮装行列が祭礼に加えられたりした。
1811年(文化8)の通信使は韓日双方の財政難で対馬までしか派遣されず、その後も計画はあったが実現せず、やがて日本は明治維新を迎えて朝鮮との善隣友好関係は破綻した。
(2007.1.31 民団新聞)