掲載日 : [2007-03-14] 照会数 : 12024
4・24及び5・17事態調査委特別報告(上)
[ 「4・24および5・17事態調査」の結果について説明する同調査委員会の丁海龍委員長 ]
主体性堅持し再躍進するために
「4・24および5・17事態調査委員会」は12日、最終の全体会議を開いてその任務を終えた。これを機にさきの第61回定期中央委員会で承認された「特別報告」(要約版)を2回に分けて掲載する。なお、文中の「証言」中、証言者名は割愛した。
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はじめに 対処能力の啓発不可欠
河丙執行部中枢は、本団が敵性団体と規定し、韓国大法院が反国家団体と判示した韓民統(韓国民主回復統一促進国民会議日本本部)の後身である在日韓国民主統一連合(以下、韓統連)が事務局を務め、本団が除名した郭東儀・韓統連常任顧問が議長職にある6・15共同宣言実践海外地区日本地域委員会(以下、6・15日本地域委)に対し、6・15共同祝賀行事に民団が総連、韓統連とともに参与できるよう、善処を求める4・24提議書を伝達した。
次いで、河執行部中枢は民団代表団を恣意的に構成して総連中央を訪れ、徐萬述議長ら総連代表団と会談し、「6・15共同宣言が明らかにした『わが民族同士』の理念」にしたがい、「両団体間で長い間続いてきた反目と対立を和解と和合に確固として転換させることを確認」するとともに、「民団と総連は6・15南北共同宣言を実践するための民族的運動に積極的に合流し、6・15民族統一大祝典に日本地域委員会代表団のメンバーとして参加すること」を主要合意事項とした「民団・総連5・17共同声明」に調印、発表した。
密接に関連した2つの策謀は、「人類共通の良識である自由民主主義」と平和・人道・人権の尊重を柱とする理念及び団員の総意を尊重する規約に支えられた本団の主体性を歪め、組織に物心両面にわたる多大な損害をもたらした。
本調査委員会は、民団60年史上でも類例のない政治的な危機を招いたこの一連の出来事を4・24及び5・17事態と称する(但し、一括表記する場合は5・17事態とする)。
06年9月21日、第50回臨時中央大会で鄭進執行部が出帆し、組織正常化への道が開かれた。しかし、5・17事態の主要関係者は一掃されたものの、それを可能にした背景と条件は依然として残されたままである。民団が多くの障害を克服し、主体性を堅持しつつ再び躍進するためには、5・17事態がなぜ引き起こされたのか、真相を明らかにすることによって今後への戒めとし、対処能力を啓発・育成する努力が不可欠である。
本調査委員会はこの間、委員長を中心に5・17事態関係者の言動を追跡し、責任を特定する作業を慎重に進める一方、5・17事態には南北関係に連動する韓国国内の政治的な葛藤、さらには在日同胞社会の政治的な状況などが背景にあるとの見地に立ち、その背景についても分析を試みた。本調査委員会は、現執行部から何らの制約を受けず、また、自らに何ら禁忌を課すことなく調査に当たった。なお記述に際して、関係者の職責名は言動が行われた時点でのものを用いた。
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4・24提議書問題 河中枢、当初から画策
河団長の韓統連との一体化発言
河氏は団長就任後、韓国「時事ジャーナル」(4月18日付)とのインタビューで、韓統連について大要次のように語った。
「彼らが離脱する当時、民団に過ちがあった。同じ民団なのに、排斥した。私は今後、彼らと手を握り、民団を率いていく。彼らの組織体もそのまま認定した状態で民団に迎え、その意思を積極的に反映したい」。
韓統連が処分撤回を提議
河執行部は公式記録だけでも06年4月10日、同21日、24日、中央会館で韓統連幹部と面談した。24日は韓統連が正式な提議書を持参し、金淳次副団長と姜英之企画調整室長が接受した。提議書は、郭東儀氏に対する除名処分、韓統連に対する敵性団体規定の解除、韓青および韓学同の傘下団体取り消し処分の撤回を求めた。
姜室長は5月1日付報告書で、「6・15共同行事に民団が主体的に参与、中心勢力となるべく実行委に提議(4・24提議)した以上、韓統連が要望した5月15日まで必ず回答するのが妥当」と具申した。
河団長の指示で、姜室長が原案作成
「2、3日前に河団長から指示され、私がだいたいの内容を起案した。韓統連を対等にしたのも団長の指示だ。河団長は『もはや敵性団体はない』と言ってきたのだから」(姜氏)。
「提議書はその当日に言われて手伝った。姜室長が口述したものをハングルで入力した。誤字もあったし、もっと検討すべきだと伝えたら、『時間がないから』と言って、急いで持って行った」(証言)。
「(24日当日)時間がないとか言って、団長が一字一句目を通していた」(証言)。
姜室長は5月1日付報告書で、金淳次副団長とともに提議書を提出した際の面談時間は、午後6時から30分間、日本地域委は劉相植代表、朴勇事務局長、宋世一韓統連事務局長が対応したとし、6・15行事や8・15行事で民団が中心的な役割を果たすには、民団がまず「南々和解」に向け韓統連との関係を改善する必要がある、と具申した。
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調査委の見解 韓統連との一体化狙う
韓統連から民団への提議書は、民団の4・24提議書の公的な根拠をつくろうと企図したものだ。これを受けて、民団の4・24提議は直接的には河団長の主導で進められた。文書起案は姜室長、文書確定は河団長、伝達責任者は金淳次副団長である。
4・24提議書の本質を明らかにする材料は、韓国「統一ニュース」(4月27日付)における郭氏発言の中にある。郭氏は6・15日本地域委がこう対応したと述べた。「民団の勇断に対しては深い敬意を表する。そして今これを郭議長に伝える。郭議長が今日韓国へ行くから」。
つまり、民団提議書が24日でなければならなかった理由は、郭氏が訪韓に際して実物ないし写本を携行する必要があったからだ。
「統一ニュース」によれば郭氏は26日、民団の4・24提議書を所持し、興奮した面持ちで公表した。「統一ニュース」のホームページに掲載された同提議書は、団長印などの鮮明度から見て、ファクスで送ったものではない。
なぜ、郭氏は持参・携行する必要があったのか。
「彼は今日(27日)開城で開かれる6・15南側委ペク・ナクチョン常任代表と6・15北側委アン・ギョンホ委員長との会合に向け、光州6・15民族共同行事に参与する6・15海外委代表団人数を100名から150名に増やし、参観団の50〜70名程度を配分するよう要請した」。
要するに、民団の6・15行事参加を既成事実として、海外委共同委員長であり日本地域委議長である自身の野心を実現し、韓統連の実質代表でもある自己の存在感を示す必要があった。この画策に郭氏は強い動機を持つ。
「今日(27日)の開城接触が6・15民族共同委共同委員長会議ではなく、南北共同委員長会合形式で進行された背景は?」との問いに、郭氏はこう答えている。
「それは本当に間違いです。北側から私に、共同委員長会議だとの正式な招請状がきた。それで、昨日(26日)5時半から6時50分までペク・ナクチョン常任代表と招請状を見せながら話をした。(中略)南北共同委員長の会合は規約にもないもので、南北海外共同委員長会議を開いて決めるのが正しいのでは?(中略)私が是非参加したいからではなく、今回の会議は重要です。日本の状況が大きく変わったし、そのように変化したことも南北に正確に伝達したいと言った」。
郭氏にとって重要な会議に、参加したいのに参加できない状況があり、民団が自分に全権を委任したというインパクトある新材料を是非とも必要としていたのである。続いて郭氏は、「民団への配慮」から代表団と参観団の規模拡大を繰り返し求め、こう踏み込んだ。
「6・15は南側で行い、8・15行事は北側で、南北・海外一緒にするという案が合意に至らない状況で、わが立場を明らかにしたい。わが立場では分散開催がよい。6・15民族共同委の立場から見て、統一運動勢力を結束して6・15共同委を強化するのが重要だ。民団も参加する条件で、私たちは8月15日に東京で、『6・15共同宣言実践のための海外同胞大団合大会』にしたい。これがほぼ民団とも合意されたことだ」。郭氏は分散開催による東京での一大パフォーマンスに、あくまでこだわっている。
しかも、「ほぼ民団とも合意されたこと」とあるのは、河執行部の中枢と相当突っ込んだやり取りがあったことを示す。郭氏が「民団」と言った人物は誰のことか。これまでの事情聴取によって、金保雄、金昭夫、朴小秉の3副団長は中枢から外れており、河団長を中心に金東一、金君夫、金淳次、姜英之の5氏で構成された中枢を指すことは疑いない。
河執行部中枢が24日に慌てて文書をつくったのは、郭氏が参加するはずだった「開城接触」の急変で、文書の提出日が早められたか、内容の変更を求められたからであろう。
郭氏がソウルで4・24提議書を公表した26日はちょうど、河執行部初の全国地方団長会議の場で姜室長が、日本地域委に赴いて提議し大歓迎された、と口頭報告した日である。この団長会議は、当初4月18日に開催する予定であり、公文まで発送していた。26日に延期されたのは郭氏の公表に合わせたと見られる。
河団長は昨年2月の選挙戦以前から郭氏と接触していた可能性は高く、「時事ジャーナル」での発言にも明らかなように、韓統連との一体化に強い意志を持っていた。4・24提議書問題は、郭東儀氏と河執行部中枢の謀議であることは明らかである。
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《資料》 韓統連とは何か
◆法的な性格 民団の敵性団体であり、韓国の反国家団体である
本団は1973年9月の第22回中央委員会において、韓統連の前身である韓民統(韓国民主回復統一促進国民会議)を敵性団体と規定した。72年7月には韓青(在日韓国青年同盟)・韓学同(在日韓国学生同盟)の傘下団体規定を取り消し、73年5月には現・韓統連の郭東儀常任顧問を除名処分にした。また、韓国大法院は1978年6月、反共法・国家保安法違反に問われた在日韓国人の判決に際して、韓統連を反国家団体であると判示した。
◆組織的系譜 一貫して民団の指導部奪取を画策
4・19学生義挙、5・16軍事革命と続いた激変以降、民団中央執行部の奪取を図るようになり、61年10月、民団正常化有志懇談会(有志懇)を結成したのが始発点である。有志懇は反中央活動を展開、68年の民団東京大会の団長選挙で勝利し、執行部中枢を占めた。71年3月の第30回中央大会の団長選挙に、有志懇は必勝の姿勢で臨んだが敗北、同年5月、すでに掌握していた韓青・韓学同などとともに、民団自主守護委員会(自主守護委)を結成した。この年の光復節式典は、中央本部と自主守護委の東京本部とで、分裂開催となった。
中央は東京本部を直轄したが、自主守護委は韓青・韓学同を先頭に立てた集団暴力で東京本部を占拠した。同年10月、事態収拾のために開催予定の第19回中央委員会は、彼ら180人の集団暴力によって流会に追い込まれた。翌72年の4月、自主守護委は中央3機関長を監禁・暴行するに及んだ。しかし当初、中央と東京の単なる確執と見ていた各地民団は、360余人の青年が東京で「韓青中央現執行部乱動糾弾大会」を開いたのを起点に、全国組織が連携して民団正常化を果たして行った。
72年に7・4共同声明が発表されると、自主守護委は民団の名称を騙って、総連と「南北共同声明を支持する共同集会」を相次いで開催した。総連との共同作為は支持者を離脱させ、自主守護委の勢力を減少させたが、翌73年8月8日、金大中拉致事件が発生すると、直ちに金大中救出対策委員会をつくり、同15日、韓民統を結成した。その主たる構成は、自主守護委、金大中救出委、旧民団東京、旧民団神奈川、韓青、旧婦人会東京など8団体であった。この韓民統が89年に韓統連に改編され、今日に至っている。
北式統一が至上課題 民団破壊、財産簒奪も
韓統連は民団掌握に失敗すると破壊に乗り出し、それにも頓挫すると民団資産の簒奪に血眼になった。東京本部と神奈川本部は占拠され続け、民団はそれを取り戻すために長い時間と莫大な支出を強いられた。神奈川本部の場合、12年にわたる裁判のあげく3700万円の和解金を支払わされ、この間の神奈川本部の損失は10億円余に達した。
◆政治的背景 北韓の対韓路線に忠実な走狗
1950年、総力をあげた南侵武力統一に失敗した北韓は、61年の第4回党大会で対韓破壊工作、つまり韓国に北韓「支持勢力」を植えつけて、「革命」もしくは「革命状態」をつくりだすべく、韓国内革命組織を建設する路線を打ち出した。64年3月、実態は労働党の韓国内地下組織である統一革命党がソウルで結成されたと発表、68年1月にはソウルに、11月には蔚珍・三陟に、「南朝鮮人民」の蜂起を装った武装ゲリラを侵入させた。
総連はこうした北韓路線に則り、民団を対韓破壊工作の基地にするため、フラクションを民団内部に植えつけ、その周辺にシンパを固めた。この初期段階が有志懇である。総連と北工作員はまた、民団系青年・学生を包摂、「工作員」として韓国に送り込んだ。60年代後半から70年代前半にかけて、民団系子弟が相次いで検挙されたことはよく知られている。有志懇から韓統連へと組織名は変わっても、彼らの本質は北韓路線の忠実な走狗であることに変わりはない。韓統連は現在も、北韓の高麗連邦制による統一を至上課題として掲げ、6・15宣言実践を表看板に民団を北韓統一戦線に組み込もうと画策している。
(2007.3.14 民団新聞)