掲載日 : [2007-03-28] 照会数 : 9561
4・24及び5・17事態調査委特別報告(下)
[ 06年6月の全国団長・傘下団体長会議では5・17声明の撤回を求める意見が相次いだ ]
再生へ生活者団体の原則堅持を
【総括見解】北韓の統一戦線に民団を組み込む策謀
第61回定期中央委員会で承認された「4・24及び5・17事態調査委員会」の特別報告(要旨)の後半部分を紹介する。なお、文中にある「証言」について、証言者名は割愛した。
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早くからのシナリオ文案も総連の主導で 5・17声明問題
団長就任早々から強い意思表明
2月24日の第49回中央大会で「在日は今こそあらゆる違いを超えて和解と和合を」と訴え、「改革」を掲げて団長に当選した河丙氏はその日の記者会見で、民団と総連など諸団体との「統合」を打ち出した。続く3月9日、河団長は記者会見で、「改革民団号のスタートに際して」と題する談話を発表し、「在日の統一モデル」をつくるため、できるだけ早く総連を訪問すると表明した。代表会談は第3の場ではなく、総連中央本部であることを既定の方針としていた。
総連訪問情報の表面化過程
「5月の1日か2日、河団長が近いうちに総連と和解をする可能性があると、日にちはまだ確定していないけど、という話を私と2人だけの時にはっきり言った」(証言)。
「1週間ほど前に、行くことは知っていた。正確な日時は知らなかった」(前企画調整室長・姜英之氏)。「5月11日に団長室に呼ばれた。団長と姜室長が座っていた。で、河団長の口から総連中央に行くよと、その時初めて聞いた」(証言)。
公的な交渉窓口と文案作成
「(11日に団長室で)団長から総連に電話しろと指示を受け、名前を指定された。相手に電話したら、すいすい話が決まった。姜室長と僕、総連は総務局長と統一局長の4人で12日、全日空ホテルで話をした。相手も上から指示されて動いている。初交渉の雰囲気ではなかった。すでにシナリオが全部できていたのではないか」(証言)。
06年7月7日、監察委員会の事情聴取で前室長・姜氏は、「話し合いの中で、総連の意思が強かった。文案さえできればということで、13日には文案を持ってきていたから。それまでに事前交渉とか、誰がやったのか、私は一切知らない」と陳述した。
「私は文書について提案もしていないし、手も加えていない。組織局長が起案して、向こうに見せて訂正して、スッキリしたものになった」(姜氏)。
「総連の声明文の初案を見て、僕は姜室長や団長たちに言った。これはダメなので僕が起案すると。根拠にしたのは南北共同宣言がワンペーパーだったこと。それに倣って、1枚の簡潔なものにした。最後の文案は、僕の感触では総連のかなり上のレベルと河氏とではないか。僕はこれを、団長室で団長から受け取る時の口ぶりから感じた。『これで行くから』と。それは15日の午前中、朝だったと思う」(証言)
代表団はいつ、どう決まったのか
総連訪問の前日午後3時頃、姜室長が「民団・総連代表会談に関して 2006・5・15、13:30 事務局」と印字された文書を常任委員たちに配布し、代表団構成や実務者の役割分担、当日のスケジュールを説明した。この事務局とは、姜室長が局長を兼任した「改革推進本部」の事務局のことだ。この文書で注目すべきは、総連側代表団が最初に記載され、民団側代表団7人がその下に記されていること、当日の段取りや役割分担が細かく規定されていること、そして何よりも15日午後1時半には仕上がっていたことだ。細部の詰めまでが遅くとも15日午前中までには決まっていた。
両副団長はボディーガードで随行
中枢3金氏のうち高齢の金東一氏を除く金君夫、金淳次両氏は当日、自らボディーガードを志願する形を装い随行した。
「私は取材記者の受付をしていたので、2人の動きが自然と目に入ったが、2人とも笑みを浮かべて総連側人士と親しげに話していた。明らかに初めて総連に来たのではないような、また、総連中央の人間と初対面ではない旧知の印象だった」(証言)。
金君夫副団長は翌18日、複数の実務幹部に、「画期的な和合を果たしたのに、日本の右翼反動たちを中心に、これを叩こうとする勢力がすでに現れた」と述べ、「これに便乗して河執行部を潰そうとする勢力がいる。維新民団の残党どもを命をかけて阻止して見せる」と発言した。ちなみに、「維新民団の残党」とは、韓統連が民団を誹謗中傷する時の常套句である。
朝日記者から金君夫 副団長への抗議
TBSテレビが第一報(16日午前)を報じた後、朝日新聞の同胞記者から「朝日が第一報を流すという条件で、総連との会合の報道を控えてきたのに、約束が違う」と抗議があった。この朝日記者から4月、「団長ではなく、ナンバーツーの副団長にインタビューしたい」と申し入れがあり、宣伝局長が筆頭副団長とされた金君夫氏につないだ。宣伝局長はその後、「いい記者を紹介してくれた。遅くまで飲んでいろいろ話ができた」と聞かされた。
「夕刊で朝日、読売が報道したが、『公安情報』である読売に比べ、朝日の記事は精度が高かった。金君夫氏のリークだと確信している」(証言)。
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6・15へ参加を急ぐ民団狙う動きと一体 調査委の見解
5月17日の総連訪問と共同声明の発表は、韓統連が事務局を務める6・15日本地域委への、4・24提議策動の延長線上にある。5月13日に提示された総連側の文書「総連、民団5・16共同声明(草案)」は、「北と南の首脳の方たちが6・15共同宣言をつくってくれ、『わが民族同士』の理念に基づき民族的団結と統一に向かう新時代を開いてくれた流れのなかで」といったフレーズが繰り返されている。
その上で最重点を置いたのが、「両団体と韓統連が平等の資格で参加し、6月14日から17日まで光州で開催される6・15民族統一大祝典にともに日本地域委員会の代表団メンバーとして参加することにした」という「合意」である。5・17声明の内容は総連と韓統連の意向を強く反映し、民団を是が非でも6・15行事に参加させようとしたものだ。
ここで再び、郭氏が4月27日に韓国「統一ニュース」に語った要点を想起する必要がある。郭氏は、6・15行事に参加するため善処を求めてきた河執行部中枢への配慮から、海外委員会の代表団と参観団の人員を増やすことと合わせて、「8・15民族共同行事は南北海外委で分散開催すること、6・15海外委が主催し6・15日本地域委が主管する『6・15共同宣言実践のための海外同胞大団合大会』を日本の東京で、民団と総連がともに参加するなかで南北海外代表団を招請して行う」運動を展開していた。5・17共同声明文は、この動きとぴったり符合している。
前団長・河氏は、複数の副団長や実務幹部から朝令暮改は当たり前の、無定見・無節操な人物であると評されているにもかかわらず、総連・韓統連との「和解・和合」には一貫して、強い意思を見せていた。2・24選挙に臨むに際して、韓半島南北の政治的状況やそれに連動する在日同胞社会の一部の思惑など、民団を狙うより大きな動きと河氏の意思が一体化したことは疑うべくもない。5・17会談に向けて指揮を執ったのは河氏自身であり、その軌道を整え、裏で動いたのは金東一、金君夫、金淳次3氏であった。前室長の姜英之氏は表の役割を担い、徐組織局長はすでにあったシナリオのもとで、アリバイ工作とも言うべき表向きの交渉窓口を任された。
とくに、金君夫、金淳次両氏は、一切表に出なかったことが逆に、裏で重要な役割を果たしていたことを物語る。
次に、両機関長の問題である。総連訪問をいつ知らされたか、声明文を見たのか見なかったのかはともかく、16日午前中には第一報が流され、夕刻には全国紙でも報道されており、その日のうちに大騒ぎになっていたことを考えれば、直ちに行動を起こすべきであった。訪問当日、それを阻止することは両機関の立場から不可能としても、不参加を断行する可能性もあった。
また、2機関は臨時中央委員会以後、組織正常化の流れに沿い、両機関の責務を果たしたとはいえ、両機関長には結果責任が残る。
ここで、金監察委員長に対する一部からの疑念について、ひと言申し述べる。
その疑念とは、5・17訪問を裏で主導したのは金監察委員長だ、というものである。しかし、本調査委員会はそのような事実はなく、その指摘は誤解に基づくものと判断する。金委員長は本人の証言によって明らかなように、総連大阪の委員長とのハナマトゥリを通じた個人的なパイプや、総連との交流に積極的な姿勢を隠していない。河氏に、総連と8・15共同開催を進言したと自ら語っているほどだ。
だが、総連との性急な「和解」、韓統連がらみの対総連交渉には強く反対してきた。大阪の幹部団員の多くから、「金委員長は総連との交流には熱心だが、韓統連には拒絶反応がある」との証言もある。
5・17に対する2機関長の姿勢
「議長から当日の朝6時に電話があった。自分が出られないかも知れないので、上京して欲しいと。結局、代理がきかずに議長が出席したが」(証言)。
「17日の朝6時頃に洪正一副議長から電話が入り、『総連に行くから、すぐに来いと言っている。議長は行けないので副議長が行くように言われている』と言ってきた。で、洪副議長と2人で東京に向かった。議長は最初、行かないと言っていたが、結局、行くことになった。議長と行動をともにしようと思っていたので、議長が行かなければ私も行かないつもりだった」(証言)。
「17日当日の朝、議長はすごく憤慨して、『自分はもう行かない』と、話を聞いていないし、こんなやり方ではコンセンサスもない、ということで、行かない、行かないと言っていた。監察委員長も、大事なことなのに一部で事が進んでいて、2機関長をないがしろにしていると、かなり憤慨していた。『お前たちで勝手に進めたらダメだ』と言って」(証言)。
「河団長には総連と対話・和合しなければならないという話はした。ただ、大阪のハナマトゥリの経緯を含めて説明し、あまり性急にはできないと言った。そうしたら河団長から、6・15共同行事の話が出た。それは韓統連が主導している。民団としてはできないと言った。そして、総連とは8・15をしたらどうかと誘導した。しかし、団長は裏で韓統連と進めていた。後日、総連大阪の委員長から、韓統連が中に入って話を進めているという話を聞いた。韓統連と話を進めているのかと河団長に問いただしたら、そんなことはないとかわされた。このやり取りは、総連に行く少し前だった」(証言)。
依然と残されたままの「大状況」
これまで、4・24提議書問題と5・17声明問題を検証し、2つの問題について本調査委員会の見解を示した。しかし、「はじめに」で触れたように、5・17事態を許した背景と条件は依然として残されたままである。これを本調査委員会は「大状況」と規定し、民団の視点から解明を試みた。この総括見解の対象は、民団に押し寄せ、河執行部誕生をサポートした外部の力であり、それが持つ意味である。
河候補が繰り返した「在日は1つ」の発言
河丙氏は2・24選挙の事前運動で各地を回り、1月13日は広島県の顧問、支団長、婦人会会員ら20人との懇親会で、同22日には東京本部の支団長ら約20人との懇親会で、「これからの民団は、グローバルな時代に即して、総連も韓統連も、平和統一連合も、ニューカマーも、一緒にならなければならない。みんな合わせて在日だ。在日はひとつだ」と強調してきた。他の懇親会でも同様の発言が確認されている。ただ、公式の選挙戦に入ってからは、「民団を中心として諸団体が、違いを超えて団結しなければならない」とし、韓統連や平和統一連合については特に言及を避けた。
一部の駐日公館 関係者の動き
羅鍾一駐日大使は民団に寄せた06年新年辞で、「日本内の韓民族の和合と統合モデルを創り出し、これを通じて韓半島の平和統一を早めよう」と呼びかけ、民団に対して一部団員の声としながらも、官僚主義に陥り惰性に流されていると異例の指摘をした。
▽旧韓青中央の委員長をした金君夫氏が呼びかけ人になって2月19日、大使公邸で旧韓青(韓統連の母体の1つ)OBを集めた食事会があった。
▽民団新聞の論説委員長であった金淳泰氏は、調査委員会に当てた書面で、選挙と公館との関係でこう述べた。「姜英之氏から選挙の協力要請があった。一応、駐日大使館の関係者に問い合わせたが、鄭進氏は信用できない人物として詳細な説明があった。小生は、河氏は朝鮮大学出身という噂を追及したが、それについては問答無用、大丈夫とのこと、河氏の方を評価した」
▽金忠慶総領事は、5・17声明の白紙撤回を求める声明文を出した民団千葉県本部に電話を入れ、圧力をかけた。「その日、総領事から相談があると言われ、会った。総領事は『私たちは河団長を支えたい。自分たちは地方に連絡して』云々と言ってきたので、そのようなことは止めて欲しいと頼んだが、その後に電話をしてしまった」(証言)。
要路訪問後の河執行部
15人で構成された代表団は、06年4月5日から12日まで、本国要路訪問を行った。事情聴取の結果、要路訪問後、河執行部中枢が勢いづいたとの証言が多い。
「青瓦台で大統領は、今までの民団は応援することができないが、これからの民団に期待していると、長時間にわたって語った」(証言)。
「4・24提議書以降、韓統連は敵性団体だと指摘して金君夫、金淳次両副団長とはよくぶつかった。2人は、大統領ですら総連との和解を奨励しているではないか。6・15共同行事参加も国策だと。国の政策に則って我々が走って、何が悪いのか、と感情論になった」(証言)。
「姜英之氏が要路訪問から帰ってきて、政府補助金はこれでだいぶ取れるよ、と何回も言っていた」(証言)。
「民族和解協議会(民和協)の趙誠宇氏から、要路訪問の際に是非会いたいとの連絡があったが、河団長は断った。河団長らは民和協ではなく統一連帯と会っていたと民和協の実務者から指摘され、『執行部が変わると相手にしてくれないのか』と言われた」(証言)。
ちなみに、6・15共同宣言実践南側委員会は民和協、統一連帯、7大宗教団体で構成されている。統一連帯は完全な親北団体。
以上の事実や証言以外にも、2・24選挙と5・17事態の背景をなした「大状況」が民団を韓国国内の、南北関係をめぐる政治的な葛藤にリンクさせるものであったことを示す材料は多い。
民団に対する「和解・和合」圧力
1980年5月の光州事態以降、民主化闘争が勢いを増していく過程で、学生・労働者に対する北韓の工作が浸透し、韓国内に北韓の主体思想を信奉する主思派(チュサパ)が増殖したことはよく知られている。書店には唯物史観に依拠した書籍が山と積まれ、「韓国は親日・親米の反民族勢力がつくった国であり、北韓は抗日愛国勢力が樹立した国」というプロパガンダが溢れた。2000年6月15日平壌で、金大中大統領と金正日国防委員長が「南北共同宣言」に署名、発表した。
同宣言5周年を前にした2005年3月1日、韓国、北韓、海外地区に「6・15共同宣言実践委員会」が結成され、日本地域委員会も設置された。これに先立つ2月4日、韓統連幹部が民団中央本部を訪れ、6・15日本地域委をつくるので民団も入って欲しい、との文書を持参した。
一方、統一教会を母体にした平和統一連合は04年7月に結成され、民団人士らを役員に据えて活発な活動を展開し始めた。同連合は同10月、民団に対して「在日同胞祖国訪問および平和統一大会に対する協助」を要請する公文を送ってきた。南北共同宣言の翌年から毎年、親北勢力を中心に6・15記念集会が金剛山で開催されるようになり、04年の5月には民団にも参加要請の公文が来るようになった。
05年初頭から、民団に対する韓国内親北勢力と韓統連の民団に対する「和解・和合」圧力が着実に強まるなか、河丙氏は「総連も、韓統連も、平和統一連合も同じ在日」という言辞を持って事前選挙運動を始めていた。
民団は生活者団体の立場から自ずと、特定の政治的・宗教的団体に利用される可能性を排除する原則を有する。河氏の言う「改革」とは紛れもなく、民団からこの原則を取り除こうとしたものだ。河執行部中枢による韓統連の敵性団体規定解除や6・15祝典参加のための4・24提議、5・17声明発表などの一連の策動は、そのような潮流のなかで仕組まれていたものと断定せざるを得ない。
連邦制と韓統連
韓統連はホームページで、「連邦制による祖国統一」の実現を活動目的に掲げている。この連邦制統一とはつまり、「南と北の社会制度をそのままにして連邦制を構成し、1民族1国家2つの制度と2つの政府による統一祖国を実現すること」である。彼らの言う連邦制とは、北韓が1980年10月に打ち出した「高麗連邦制統一案」そのものだ。韓統連が北韓・総連の走狗とされるのは、このような事情によっている。
この連邦制統一案の実体は、2制度2政府を残したまま「すべての民族成員を代表できる全民族統一国家」を創立し、南北同数の代表と適当な数の海外同胞による最高民族連邦会議を構成して、そこが設けた連邦常設委員会によって南北の地域政府を指導する」というものだ。北韓が1960年8月以降、一貫して主張してきた連邦制案は、統一への過渡的な形態とされていたにもかかわらず、現在の高麗連邦制案では完成統一の形態に格上げされている。「2制度2政府」が完全な統一国家と言えるはずもなく、国際法では、連合制構成国間の武力闘争は「戦争」だが、連邦制のそれは「内戦」とされるなど決定的な違いがある。
高麗連邦制案の核心をなす「最高民族連邦会議」の、南北同数の代表と適当な数の海外同胞によって構成されるとの要件は、北韓の意図を露骨に示す。南4700万対北2300万という人口比からだけ問題になるのではない。朝鮮労働党の指名によって一枚岩となる北側代表と、自由選挙で選出され親北勢力を含むことになる南側代表が同数であれば、いかなる政策が決定・推進されるのか論議の必要もない。「適当な数の海外同胞」というのも重要な要素である。
北韓にとって「南側代表」や「海外同胞」とは、選挙によって代わる韓国の、政府という実体を飛び越えて、南側や海外の団体・企業と直接連携しようとする方便であり、韓国・海外を攪乱しつつ自らの利益のみを追求しようとする、伝統的な統一戦線戦術の対象でしかない。韓統連はまさに、北韓の統一戦線戦術の日本での先兵として動いているのである。
連邦制と6・15行事
この統一戦線戦術を民団にも適用すべく、道具として活用されているのが「6・15共同宣言実践民族共同行事」である。その先兵となる韓統連の実質指導者・郭東儀氏が6・15実践海外委員会の共同委員長、日本地域委の議長となったのは、北韓に融和政策をとる韓国政府サイドにごり押しした結果である。郭氏は言うまでもなく海外委と日本地域委の事務局長を兼ねる朴勇氏も、韓国当局が北韓の対南工作員と把握している人物だ(月刊朝鮮ホームページ06年6月3日入力)。彼らの言う6・15行事にはいつも、南北代表が150人ずつで海外代表が100人といった参加枠がつくられるが、「最高民族連邦会議」の構成要件と対応していることにも注目すべきだろう。
韓統連はホームページで、「連邦制による統一が実現すると、在日同胞社会も南や北の団体をそのままにしながら、連邦政府に対応した在日同胞の機構ができる」などとも主張している。現段階ではまさしく、民団、総連、韓統連(しかも事務局)を対等な立場で構成団体にしようとする6・15日本地域委が「連邦政府」に対応する在日機構である。これは紛れもなく北韓の利害を一方的に代弁しようとするものだ。4・24提議や5・17声明は、それを推し進める策謀であった。
河前団長が当選当日に「総連と統合する」と言い、「時事ジャーナル」で「韓統連との一体化」を唱えたのも、決して口が滑ったわけではなく、韓統連と主義主張を同じくしたからにほかならない。河氏の言った「在日はひとつ」という言葉は、北韓の高麗連邦制案に対応したものなのだ。6・15行事が北韓や親北勢力、総連や韓統連にとって、高麗連邦制のシミュレーションの意味を持つのは明らかであり、河執行部中枢による5・17事態はその動きと強く結びついていた。
本調査委員会としては最後に、5・17事態の重要性に鑑みて事態の深層を今後さらに究明していくべきであることを申し添え、報告を終える。
(2007.3.28 民団新聞)