掲載日 : [2007-06-13] 照会数 : 8733
浜離宮と400年前の朝鮮通信使…深いゆかり
[ 浜離宮庭園の「中島の御茶屋」。別名「狎鷗亭」 ]
[ 下書を揮毫する通信使(葛飾北斎「東海道五十三次」葛飾北斎美術館蔵) ]
[ 上鞆の浦・福禅寺に残る「日東第一形勝」の書 ]
東京都心に残る深い縁…400年前の朝鮮通信使
浜離宮庭園の茶屋「狎鷗亭」
浜離宮庭園「中島の御茶屋」の別名「狎鷗亭」は、朝鮮通信使と深い因縁があった……。浜離宮恩賜庭園(東京・中央区)、潮入の池中央部の中島に建つそれは、もともと「狎鷗亭(こうおうてい)」と呼ばれていた。その名から、韓国ソウルの狎鴎亭洞(アックジョンドン)を連想する人も多いだろう。中島の御茶屋には「狎鷗亭」という扁額がかかっていたが、その揮毫したのが朝鮮通信使であるとの説がある。さらに、「狎鷗亭」という命名すら通信使によるもので、それはソウル江南にあった「狎鴎亭」という東屋に由来しているのかもしれないという。
ソウルにゆかりの命名?
焼失の扁額に揮毫したかも
浜離宮の場所はもともと干潟で、江戸時代初期には将軍家の鷹狩場であった。1654(承応3)年、4代将軍家綱の弟で「甲府宰相」とも呼ばれた甲府徳川家の松平綱重がその場を埋め立て、甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てた。
その後、綱重の子、綱豊が6代将軍徳川家宣となると、将軍家の別邸に昇格し「浜御殿」と呼ばれるようになった。家宣は、甲府徳川家由来のこの別邸がとても気に入り、1707(宝永4)年に大改修を行い接待などによく利用した。大手門を設け、庭園を大整備して海水を引き入れ大池をつくり(潮入の池)、中島を構えて茶屋を置いた。それが、現在の「中島の御茶屋」である(現在の建物は1983年に復元されたもの)。
明治維新後は皇室の別邸「浜離宮」として宮内庁が所管、第2次大戦後は東京都の所管となり庭園は開放されている。園内には今も潮入の池があり、鴎や鴨など野鳥の群れが羽根を休めている。
朝鮮通信使は徳川家代々の将軍就任祝賀の目的で来日していたが、家宣の就任祝賀の通信使は、江戸時代第8回目で、1711(正徳元)年に来日した。このとき日本側(幕府)の接待役だったのが家宣の指南役でもあった新井白石で、対馬藩の接待役兼通訳が雨森芳洲である。
第8回通信使は総員500人で、大阪残留の129人を除く371人は10月19日に江戸の宿舎、浅草の東本願寺に到着。江戸には11月19日の出発まで約1カ月滞在した。
江戸滞在中の公式行事は、朝鮮国王よりの国書伝達式と将軍家による饗応、徳川将軍よりの回答国書伝達、老中による歓迎の饗応、同・送別の饗応、将軍・諸大名列席の前での馬上才(曲馬)の演技、対馬藩邸での招宴と馬上才などがあった。
6代将軍が招宴の可能性
そのほかは原則として宿舎に滞在していたが、その間に筆談酬唱を求める日本の学者・文人が大挙宿舎を訪れ、一行は多忙を極めていた。このとき、家宣は改装して間もない浜離宮に通信使を招宴した可能性が高い。そこで通信使が揮毫した可能性はさらに高い。
なぜなら、通信使が訪れた先々では常に揮毫を求められていたからである。当時の扁額は空襲で焼失してしまい、真相は闇のなかではあるが、浜離宮関係者が扁額の写真を探しているという。
葛飾北斎の浮世絵シリーズ「東海道五十三次」「由井」では、扁額に揮毫している通信使の姿が描かれている。このように歴代の通信使は滞在した各地で多数揮毫し、現存するものも多い。通信使の記録によると、日本では「朝鮮人の筆跡をもらっておくと御利益がある」とされ、書道専門の写字官を置いていたがそれでは手が足りず、字の上手な者がいつも総動員されたとある。
第8回通信使でも、道中で最も景色が良いとされる鞆の浦・福禅寺(広島県)からの眺めに感動した従事官(書記)李邦彦による「日東第一形勝」の書が同寺に残っている。「狎鷗亭」の揮毫ももしかしたら同じ筆跡だったかもしれない。
ここから、江戸「浜御殿」扁額とソウルのファッション・ストリート狎鴎亭洞との関係がかいま見えてくる。一行はソウル光化門を出発すると南大門を通過して南山の麓をたどり、現在の梨泰院を通って漢南洞付近にあった漢江津で渡し舟に乗り漢江を渡る。
現在の新沙洞あたりで江南に上陸し、良才で最初の宿泊をすることになっていた。上陸地点の目と鼻の先に、15世紀、世祖時代の高官・韓明澮が建てた東屋「狎鴎亭」があった。現在、現代アパート団地の一角にその跡がある。当時、漢江沿いには「○○亭」と名付けられた複数の東屋があり、「狎鴎亭」の存在はよく知られていた。
「親しく遊ぶ」にちなんで?
「狎」の字は「なれる、あなどる、親しく遊ぶ」などの意味で、はるか江戸の「浜御殿」茶屋で群れ遊ぶ鴎を見て、一行が「狎鷗亭」の名を連想し、揮毫どころか命名さえした可能性さえある。なぜなら、「狎」の漢字は日本ではほとんど使われないが、韓国では現在でも漢字由来の単語で数多く使われているからだ。
フリー・ジャーナリスト
吉成 繁幸
(2007.6.13 民団新聞)