掲載日 : [2007-08-15] 照会数 : 6248
<光復節特集>複雑化する南北関係
[ 1948年8月15日に開かれた大韓民国政府樹立祝賀式 ]
急がれる歴史的な総括
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はじめに
韓国の正当性 再認識の時
来年の光復節は、大韓民国政府の樹立60周年でもある。今後、複雑に入り組み始めた南北関係を背景に、韓国政府の正体性、つまり正当性に関する論議が改めて熱を帯びることになろう。
すでにこの間、韓国内の親北勢力などによって、「北=親日派を清算した完全自主の国=統一勢力」対「南=米帝の庇護を受けた親日派の国=反統一勢力」という虚構が流布し、教育現場にも浸透している。
韓国を根底から貶めるこのプロパガンダは、核・ミサイルなど大量破壊兵器の開発を除く国力すべてにおいて、また国家モラルにおいて韓国より大きく劣後する北韓が、南北関係で優位を確保しようとするものだ。
これは、祖国統一問題を根底から歪めている。韓国とともに歩んできた民団としても見過ごせない。
光復とは本来、植民地支配からの解放に終わるものではなく、民族統合を前提とした建国であった。
真の光復である祖国統一を追求する以上、現代民族史と南北関係史はイデオロギー性を排除して客観的に捉えられるべきだ。
統一を政治・経済・文化の各面で担保するのは韓国である−−この動かしがたい事実とともに、南北関係史においても韓国の正当・優位性は自ずと明らかになろう。こうした認識を広げる作業を徹底推進することは差し迫った課業である。
(文中、敬称略)
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米ソ軍政と南北の政治勢力
北部は民族・民主派を弾圧
共産化へ急傾斜
解放後の政局にあって、親日派が親米右派として台頭する過程で民族自主勢力が挫折し、李承晩による南側の単独政権が分断の永久化をもたらした−−。この言説についてまず検証する。
1945年12月27日、モスクワで開かれていた米英ソ3国外相会議は、米ソが共同委員会を構成し、朝鮮の「民主的諸政党や社会団体」との協議の上で、朝鮮の臨時民主主義政府を樹立させ、「4カ国による最長で5年以内の信託統治を実施する」と決定した。朝鮮の政治勢力は信託統治反対・即時独立を主張する右派系と、「モスクワ決定」支持を唱える左派系とに色分けされていく。
2日後の29日に「信託統治反対国民総動員委員会」(委員長=権東鎮)が発足、翌46年1月2日には朝鮮共産党(総責=朴憲永)が「モスクワ決定」支持を宣言した。次いで2月8日、大韓独立促成国民会(「独促」。総裁=李承晩、副総裁=金九)が旗揚げし、同15日に左派陣営が民主主義民族戦線(「民戦」。議長=呂運亨ほか)を結成、左右対決の構図がほぼ固まった。
全朝鮮の政治勢力は当初、信託統治決定に激しく反発していた。しかし、ソ連軍当局は、この決定は信託統治を決めたものではなく、臨時民主主義政府を樹立するための決定だと主張し、北部の左派勢力にモスクワ決定を受け入れるよう働きかけた。南部の左翼陣営も同じ論理で、信託統治反対から一夜にして、モスクワ決定支持に回ったのである。
金体制にらむ李承晩の提唱
3月20日に開催された第1回米ソ共同委員会は、臨時政府樹立のため米ソとともに協議に参加する政党・社会団体の構成をめぐって暗礁に乗り上げ、5月6日に決裂した。こうした情勢下の6月3日、李承晩が全羅北道の井邑で、南だけの単独政府樹立を提唱する談話を発表した。
これがいわゆる「井邑発言」であり、後の分断政権につながったとされるものだ。このため李承晩は、北韓側から南北分断の元凶のように喧伝されてきた。しかし、「井邑発言」は着々と金日成体制を整える北部の実情をにらんでのものだった。
45年8月21日に、ソ連軍が平壌に進駐すると間もなく、金日成がソ連軍の軍服を着て現れる。25日にはソ連軍が平壌に司令部を設置し、即日、南北をつなぐ鉄道、電話回線を遮断し、38度線を封鎖して人と物資の往来を閉ざすとともに、「建国準備委員会平安南道委員会」を解体、「平安南道人民政治委員会」に改編した。
建国準備委は当時の全朝鮮で、最も影響力のあった中道左派の呂運亨が、総督府権限の受け皿として組織したものだ。どちらかと言えば、左翼的な傾向を帯びたこの活動ですら、北部では早くも8月の時点で、強権によって停止させられたわけである。
北部では当時、中道右派の晩植が最も影響力があった。また、左派では共産主義者の玄俊赫が国内派の代表として存在していた。8月29日に発足した人民政治委は、委員長に晩植、副委員長の一人に玄俊赫を選出した。このとき玄は、「現在の朝鮮はブルジョア民主主義革命の段階にある」とし、この段階での主導権は民族陣営にあり、を助けることは正しいと主張した。
この玄はその5日後、白昼に暗殺された。赤色テロの疑いがあるとされている。ちなみに南部ではこの年の12月30日に右派の重鎮・宋鎮禹が暗殺されるまで、右翼陣営から左翼指導者への政治テロは行われていない。
南部で米軍政当局が左翼に政治的圧力を加え始めるのは、ずっと後の46年5月、「朝鮮製版社偽造紙幣事件」からで、弾圧が本格化するのは同年の「9月ゼネスト」を前にして、9月7日に発令された共産党幹部の逮捕命令からだ。
北で大規模な反ソ学生決起
南部の政治環境は少なくとも1年間、左翼が十分に活動できる余地があり、北部に比べて健全であった。46年から47年にかけて、呂運亨と金奎植を軸に「左右合作運動」が展開されたのも、米軍当局の中立維持の努力なしにはありえなかった。
45年10月13日、「朝鮮共産党北朝鮮分局」が設置され、金日成が責任者の地位に着いた。翌14日にはソ連当局のお膳立てで「金日成歓迎平壌市民大会」が開かれている。
この間、その声望がゆえに人民政治委員会委員長の職責にあった晩植は、45年11月3日、1929年の光州学生運動の記念日を期して、「朝鮮民主党」を結党した。3大綱領に民族の独立、南北統一、民主主義の確立を掲げて党員数を急増させ、3カ月間で北部すべての道・市・郡・面に支部を結成する。
この月の7日には咸興で、23日には新義州で反ソ・反共の激しい学生示威が起きている。この流血の決起といい、民主党の躍進といい、社会主義化へ急傾斜する北部にあって、北部の民族・民主勢力の潜在力と反発が如何に大きかったかを示すものだ。これらはソ連と金日成に脅威を与えた。
晩植は46年1月4日、ソ連当局の恫喝にもかかわらず、モスクワ決定に反対を表明し、翌日の夜、ソ連軍に逮捕・軟禁され、平壌刑務所に収監されても、最後までその意思を曲げなかった。その後、韓国戦争で人民軍が鴨緑江まで敗退する際、人民軍によって銃殺された。
巧妙に仕組む政治的な体制
解放直後の政治環境でさえ、北部ははるかに劣悪であり、思想信条の自由はもちろん、身体の自由すら無視されていた。人民政治委を民族主義者と共産主義者の同数で構成し、一応は朝鮮人自らが統治するような体制を築くなど、政治的体裁づくりだけは巧妙に行われていた。この種の戦術主義的な統治と抑圧のテクニックは、スターリンの全体主義的な権力のもとで発展し、その便宜性ゆえに他の共産党政権でも広く応用された。
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政権の実態化で先行した北
分断回避より自己利益
46年2月には強権的統治機構
46年2月8日、「北朝鮮臨時人民委員会」が組織された。これは実質において「北朝鮮の政権」であり、金日成が委員長に就任した。そして3月5日、北朝鮮土地改革法令を発表する(8月10日には産業国有化も公布)。
ここで重要なのは、第一次米ソ共同委員会が始まる以前の46年2月には、北部にすでに単独の権力主体が強権的に形成されていた事実、3月の時点から早くも法律や統治機構など今日の北韓の骨格を成す独自の立法行為を通じて、権力を行使していたという事実である。
米ソ共同委と別次元の行為
これは「4カ国による信託統治」や米ソ共同委の動きとは別次元の行為であり、共産党によるモスクワ決定の支持が戦術的なものに過ぎなかったことを意味する。左右合作や南北協商など呂運亨や金九が示した政治的な位相に比べれば、共産党・労働党の系譜が民族分裂を回避する努力よりも、自己の政治的利益だけを追求していたことを示す。
李承晩による「井邑発言」は、歴史的にはこうした一連の既成事実のいわば追認に過ぎない。北部にはすでに、実態としての一党独裁的政権が実存する以上、南部でも単独政府を打ち立てざるを得ないというところに、本質があった。
信託統治をめぐる米ソ共同委員会は47年10月21日、第2次会議の決裂をもって終わった。しかしそれでも、両者の意見対立を合理的に集約し、分断を回避する可能性がなかったわけではない。「南北それぞれで普通選挙を行って立法機関を設置し、両者の代表をもって臨時政府を構成しよう」という、米側の提案がそれである。しかし、ソ連はこれを拒否した。
結局、米ソ共同委の決裂によって、朝鮮問題は国連に上程され、国連総会は47年11月14日、全朝鮮での統一総選挙の実施を決議した。ソ連はこの総会決議に欠席し、拒否権も放棄したうえ、選挙の事前準備のために北部への立ち入りを求めた国連臨時朝鮮委員団の受け入れを拒否した。
国連決議で南が単独選挙
国連総会は48年2月26日、南だけの単独選挙を決議し、48年5月10日のいわゆる「5・10単独選挙」に至るのである。そして8月15日、大韓民国政府は樹立された。
その半年以上も前の2月8日、「人民軍」を創設していた北部は、3月1日を期して最後の組織的な抵抗勢力であった天道教徒1万余人を検挙し、相当数を虐殺するなど反対勢力を徹底排除しながら、韓国政府の出帆をまって9月9日、朝鮮民主主義人民共和国を発足させた。
そして、南への電力・水の供給を直ちに打ち切るのである。
主体勢力弱かった南
左右の激突、禍根を残す
南北に分断政権が登場したことについて、李承晩に一方的に責任があるという論理は成立しない。ただ、李承晩政権にはその体質と国内外の政治状況から、負の印象が付きまとっていた。
第1に、単独選挙は済州道における「4・3事件」など、南朝鮮労働党の武装蜂起とそれへの鎮圧活動によって、一般民衆にも大きな犠牲をもたらした。北部の政治弾圧、相次いだ血の粛清がベールに包まれていたのに比べて、血塗られた政府との印象を際立たせることになり、韓国史の禍根となった。
第2に、当時の共産主義は、第2次大戦中から植民地支配や侵略に抗した勢いをそのままに、アジア・アフリカなど多くの民族の独立・統一への欲求を支えていた。これに対し、米国サイドに立った自由民主主義の先進諸国は、ほとんどが植民地支配国であり、民族解放闘争の対象であった。共産主義運動は国際連帯とプロパガンダにおいて優位にあり、北韓には追い風になっていた。
第3に、米軍政は行政遂行のために、旧親日派を含む保守親米派を重用した。李承晩政権はその土台のうえにあり、親米派に衣替えした親日派政権と指摘される余地を残した。しかも、不正腐敗は度を越え、結局、4・19学生義挙によって崩壊した。
初代政権の民族正義にもとるイメージはその後の韓国にも暗い影を落とした。北部と連動する左翼、北部を追われ共産主義に憎悪を燃やす越南民を含む、激しい左右激突を収れんする主体勢力がないまま、民族初の国民国家を形成する過程での不幸とも言えよう。
しかしそれをもってしても、韓国政府の正当性を否定することにはつながらない。韓国国民は、初代大統領である李承晩に敬意を表しつつも、権力者としての過ちを許さず、政治的正義を実現した。ここではむしろ、これが可能な韓国であったことを確認すべきだ。
ソ連軍当局は46年8月30日、北部の共産主義者を北朝鮮労働党に結集させ、南の共産主義運動に対する北労党の主導権を確立すると、北労党による単独政権設立を本格化させた。同年11月3日、道・市・郡単位で第1回人民委員会選挙を実施し、複数の政治・社会団体が参加する形の北朝鮮民主主義民族統一戦線は、全選挙区に単一候補を立てた。有権者はその候補を支持するなら白い箱に、不支持であれば黒い箱に投票用紙を入れる仕組みだ。
ソ連が導入の擬制選挙制度
ソ連が北部に持ち込んだ「普通選挙」は、単一の候補者に対し強制的な信任を求めるものでしかなかった。この擬制の選挙制度は、ソ連のレーニン政権が考案した。「革命の問題は権力の問題である」と強調し、目的を手段に従属させることを理論のうえで最初に許したのもレーニンであった。
以来、その政治勢力が築いた政治風土は、権力を奪取・維持するためには何をしても許されるという方向に変質する。その欺瞞の清算は、90年のソ連崩壊まで待たなければならなかった。しかし、この側面でも北韓は例外地域として残されたままである。
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「隷属・韓国」と「自主・北韓」の虚構
「南南葛藤」あおる
韓国歴史教科書にも浸透
「親日派清算」についてはどう見るべきか。
韓国・聯合ニュースはさる5月、「李完用ら親日派9人の財産、国への帰属を決定」と報じた。李完用は韓日併合時の内閣総理大臣だ。同ニュースによれば、没収財産は国名義で登記された後、独立有功者とその遺族への礼遇と生活安定のための支援金、独立記念行事に優先的に使われるという。
この処置は、2004年に制定された「日帝強制占領下反民族行為の真相糾明に関する特別法」に基づいて、翌年に立法化された「親日反民族行為者財産帰属特別法」によるものだ。この法によって事実上、反民族行為認定者の子孫の土地や財産を国が没収できる。
特別法の「反民族行為」の調査対象には、韓日併合の協力者、朝鮮総督府などの行政機関で一定の地位にあった公職者をはじめ、軍人(中佐以上)、憲兵・警察官(階級で区分しない)、東洋拓殖会社・殖産銀行の中央・地方幹部らのほか、独立運動家への弾圧や戦時中の戦意高揚のために活動した者なども含まれる。
特別法の趣旨について、「与党ウリ党は『親日派』が現在も保守層として隠然とした影響力を保持していると指摘、『歴史の清算』のための改正だと主張している」との報道(共同通信04年7月21日)もあった。
韓国憲法は法の不遡及を謳い、第13条で、すべての国民は行為時の法律により犯罪を構成しない行為により訴追されないと定めており、特別法を憲法違反とする指摘もなされてきた。しかし、「民族精気を立て直す」という言葉で表現される特別法の執行作業は、現在も進行中である。
それだけ韓国では、「親日派の清算」問題が深刻な争点として引き継がれてきたことを意味する。韓国は48年9月に「反民族行為者処罰法」を公布し、特別機関を設けて執行したにもかかわらず、国民の期待を裏切る結果に終わった。しかも、65年に妥結した韓日協定は請求権の相互放棄を約し、禍根を残した。韓国の歴代政権に批判的な立場からは、「親日派が現在も保守層として隠然とした影響力を保持している」との論理を可能にさせてきた。
北韓の論理をまるでコピー
こうした論理が韓国社会の一部にあるルサンチマン(ニーチェの用語。被支配者あるいは弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみを内心にため込んでいること)の反映であることは否定できない。しかし、これが北韓を肯定的に捉え、韓国を貶める論理に転化するとなれば、まったく話が違ってくる。04年から使用された高校用の近現代史の検定教科書は、問題のありかを典型的に示してくれる。まず、北韓に関する記述をいくつか拾っておこう。
《北韓に進駐したソ連軍は住民が組織した人民委員会に行政権を委譲した.人民委はソ連軍と協力して統治力を継続維持し、親日残滓を清算できた》。《土地改革の結果、地主はなくなり、貧農が減って中農が多数になった》。《「ウリ式社会主義」とは、当面する問題を自らの責任と自信の力で解決するものだ。北韓はこれを支える根本的な力として、悠久な歴史と伝統をもち創造的な活動で自らの運命を開拓する「朝鮮民族第一主義」を掲げている》。
これは、北韓の論理をほとんどそのままコピーしたものと言っていい。半面で、韓国の歴代政権や米国に対しては極めて否定的だ。
《米国の対韓農産物援助は、自国の生産過剰による農業恐慌を防ぐためであり、李承晩政府は政治資金を確保するため、これを必要以上に導入し、国内農業に大きな打撃を与えた》。《反共政策を親日派処理問題より重要と考えた李承晩政府::》。《各種機械や技術を日本から導入し、工場を日本資本で建設するのにともない、韓国経済は資本と技術で米国ばかりか日本にも隷属するようになった》。
誰のためか「土地改革」
韓国の検定教科書でありながら、北韓は自主・自立の国であるのに対し、韓国は隷属・依存の国という図式を強調している。こうした極度の偏向記述について、いちいち非を指摘することは本稿の趣旨ではない。ただ一例として、北の「土地改革」について触れよう。
これは確かに、無償没収・無償分配による自作農の創出を目的にした立法ではあった。4千人ほどの地主から没収した土地は、北部全土の約50%におよび、北部全農民人口のほぼ70%に分配された。だが、50年代半ばの農業協同化という強制集団化によって、農民は再び土地を差し出さざるを得なかったように、詐欺的な性格を持つものであった。
同時にもう一つ、共産党にとって重要な意味合いがあった。朝鮮民主党の党員が30万人を超えていた45年12月末の時点で、朝鮮共産党北朝鮮分局の党員はわずか6千人ほどだった。ところが、46年8月末には13万4千人に急増している。「土地改革」によって、地主階級から民族・民主勢力への資金の流れが断たれ、小作料が税金として共産党政権に入った。
富裕層を含む民族派や民主派が支えてきた民主党の基盤を弱体化させ、農民層を共産党へ吸収する役割を果たしたのである。
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「親日清算」北の意外な事実
弾圧と登用 併行
全て一党独裁強化が基準
では、「親日残滓を清算」したと言われる北韓は、実際にはどう対処したのか。北には親日清算に関する法律も国家機関もなく、公式の記録は何も残されていない。唯一の記録はソ連軍政資料で、47年に279人、48年に182人、総461人が日本人との積極的な協調行為で摘発され、有罪判決を受けたとある。
したがって、どのような経歴を持つ誰々が、いつどのような罪状でどう罰せられたか、記録から真実に迫るのは困難だ。だが、全体像はほぼ明らかになっている。
北部では45年解放から政権機関が完備する46年初まで、人民委員会を中心に社会主義階級闘争を急進的に展開し、地主、日帝時代の公職者、工場幹部ら親日反民族行為者だけでなく、財産を所有するか一定の職位があったエリートたちは財産を没収され、弾圧された。
46年3月の土地改革に続く10月の産業「国有化」によって、北朝鮮人民委員会は合法的に、日本国と日本人個人及び法人などの所有、または民族反逆者所有の一切の企業、鉱山、発電所、鉄道、運送、逓信、産業、文化機関、銀行などを無償で没収し、「国有化」した。
親日経歴者が政権中枢にも
45年11月には咸興や新義州で、翌年3月13日には咸興・興南一帯で共産化に反対する学生・市民たちの大規模なデモがあり、ソ連軍はタンク、航空機を出動させ、無差別射撃でこれを鎮圧した。その後も、ソ連軍幹部や金日成らを標的にしたテロが頻発した。こうした過程で大量の越南民(南への越境難民)が発生し、南部における共産主義憎悪を増幅させ、政治的な混乱に拍車をかける要因ともなった。
しかし、北韓にはこれとは別の側面もある。北韓の代表的な歴史書『朝鮮全史』現代編は、「金日成同志は、過去に少し勉強をし、日帝機関に服務したからと言って、いつまでもそうしたインテリたちに疑心を抱き、遠ざける誤った傾向を批判しながら(中略)、彼らを新祖国建設の誇らしい途に就かせた」と記録している。
同書はまた、金日成が科学者、技術者、文化芸術人などインテリを人民政権機関、重要企業所や教育・文化・保健など各機関の主要ポストに配置したとも記し、「植民地奴隷教育を受け、日帝機関に服務したところから、自分たちに少なからず残っているブルジョア思想の根を抜き、(中略)任された革命任務を責任的に遂行した」と、寄与を高く評価している。
韓国の特別法の基準によると、明確な親日派と規定される経歴を持ちながら、政権中枢に入った人物も少なくない。なかでも、金日成の実弟で副主席を務めた金英柱が代表例だ。北韓政府樹立期から70年代まで実質上第二人者の地位にあった。彼は関東軍の通訳および補助員として活動した経歴が特定されている。
他に主なケースだけで、初代内閣副首相の洪命熹(小説『林巨正』の著者。日本の戦時動員組織に協力)、同司法相の李承(食糧収奪機関である糧穀組合の幹部を歴任)、北朝鮮臨時人民委員会の書記長であった康良(日帝時代の道議員)などがいる。
北韓空軍の創設に功労が大きく、映画『赤い翼』のモデルにもなったリ・ファルがこの7月に死亡し、金正日が哀悼を表して花輪を贈ったと伝えられる。日本軍パイロット出身の同胞20人を組織して、北空軍の創建を主導したとされる彼は、飛行時間が2千時間を超す日本空軍のエースだった。
この外にも、朝鮮総督府の諮問機関・中枢院の参議、検事、軍人から鉱山技師まで、様々な「対日協力者」が行政や軍、企業など重要機関の幹部に入った。朝日新聞のソウル支局記者や総督府の御用新聞の記者らが労働新聞や宣伝部署の要職についている。
ただ、初代司法相を務めた李承は、1925年に朝鮮共産党に入党、解放後は南労党幹部となったことから、親日行為は身分偽装の可能性もある。こう解釈される例は、南北ともに少なくない。しかし、日帝時代に官僚として服務しただけで、親日人士とされる韓国の基準では、親日派と分類されることになる。
日本人技術者の帰国許さず
ソ連は日本人技術者を無視した米軍政と違い、経済関連の人材登用では実用的な態度をとり、日本人技術者と日本企業に従事した朝鮮人技術者を優遇した。韓国の調査によれば、北は日本人技術者の帰国を許可せず、残された日本人技術者は1946年11月当時868人と記録されている。北韓政府樹立後も、日本人の高位技術者には政府閣僚級を上回るほどの高額給与を支払った。興南肥料工場のある日本人技術者は、「労働英雄」さえ受賞した。
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まとめ
これで「自主の国」?
分断史を客観視する時
「当時『北はリンゴ、南はスイカ』というたとえがあったくらいである。北は表面すなわち執権層は赤いが、中身つまり民衆は白く、南はその反対という意味である」(『南部軍―知られざる朝鮮戦争』李泰著・安宇植訳/平凡社)−−解放後の朝鮮の政治的な状況を的確に現している。
全朝鮮の政治勢力は「民主的ないし保守的集団」と「急進派ないし共産主義的な集団」に二分されていた。前者は北部で、後者は南部で力を持っていた。
南部に進駐した米軍司令官の政治顧問は、勇気づけられる唯一の要素として、ソウルに西欧民主主義的理念を掲げる「練達の士でかつ高学歴の数百の保守主義者が存在していること」をあげた。米軍当局が急進左派に対抗するためにも、こうした朝鮮人と日本人官吏の協力が必要であったように、保守・民主勢力を駆逐するためにソ連が必要としたのは、ソ連に生まれ育った2世・3世の「高麗人」であった。朝鮮語とロシア語を話す彼らは、後に多くが北韓政権の中枢を担っている。
南北政府それぞれの国内政治基盤は弱い半面、国家建設の揺籃期から東西冷戦のタガがはめられていた。米ソ両当局が抱いた理念・理想の是非はともかく、それと南北の現状は大きく隔たっており、その隔たりは民衆の流血で埋められたことになる。北韓との対抗を意識するあまり、韓国の歴史に対して盲目になってはならないと同時に、共存・統一の対象である北韓の歴史にたいしても盲目であってはならない。
南北政府樹立60年を目前にして、確認すべきは確認せねばならない。韓国が第2次大戦後に独立した国家としては驚異的な経済発展を遂げ、国際社会で重きを置くようになったのはなぜか。「自主・自立」の北韓が中国、韓国など関連国の援助なしでは存立できない状況になったのはなぜか。この視点から、南北関係史と南北それぞれの歴史は検証されるべきだ。
ソ連軍の武力を背景にした一党独裁下で、民族主義者を含む非共産主義勢力を徹底排除して樹立された北韓と、民主主義的な手続きを踏んで政権を出帆させた韓国との違い、民主化運動が可能だった韓国と、不可能だった北韓との違いは厳しく認識されなければならない。
親日派残滓を清算したという北韓は、一方で政権や軍中枢、主要企業に親日行為者を登用し、日本人技術者まで厚遇したことを見ても、親日派に対してむしろ柔軟かつ合理的であったと言っていい。「清算」と「優遇」という両極の対応は、南にいち早く優越しなければならないという基準により支配されていたことも自ずと明らかになる。
南に先んじて政権主体をつくり、国家基盤を整備すべく急いでいた北にとって、すべてに優先したのは体制のソビエト化・共産化であり、権力の金日成への集中であった。親日派としての経歴があっても、それを支持すれば不問に付され、反対すればパージされた。「親日清算」は地主、ブルジョア、インテリのほか、晩植ら民族・民主主義者らとともに、政敵排除のための「不純分子」というレッテルの一枚に過ぎなかったのである。
検定教科書が親日清算問題と絡めて北韓を「自主・自立の国」と描くならば、誰のための自主・自立なのかを問わねばならない。米ソ共同委で米国が提議した「普通選挙」をソ連が拒否し、白黒式選挙を導入して以来、北部の人々が政治的自由と民主主義的行動様式を経験する機会は一度もなかった。
「国民」による主権のまともな行使が一度もない北韓を「自主の国」と呼べるわけがない。
それでも「自主の国」と言うのであれば、執権中枢にとっての自主ということになる。北韓の歴史が明らかにするように、彼らが求めたのは民族的な利益でも国家的な利益でもなく、階級的な利益ですらなかった。現実には党権力の行使にあずかる少数者の利益にほかならない。
(2007.8.15 民団新聞)