掲載日 : [2007-08-15] 照会数 : 7700
<光復節特集>「私の光復節」読者の声
[ 2年前の光復節60周年記念祝典。旧朝鮮総督府を撤去し、かつての姿を取り戻した光化門前に2万人が集まった ]
62回目の光復節(8月15日)がめぐってきた。光復節の思い出や祖国・民族、在日同胞の未来などについて、読者に声を寄せてもらった。
【質問事項】
①光復節の思い出
②祖国と民族について
③今後の在日社会とは
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踊りや歌で皆が祝う
呉文子さん(東京・主婦・69)
①私が8・15を迎えたのは岡山で、小学校3年のときであった。これからは空襲もなく、焼夷弾の間を縫って逃げなくてもいいんだと、とてもうれしかったことを憶えている。その翌年だったか、日本三大名園・後楽園でチマ・チョゴリを着たオモニたちが、チャンゴを叩きながら歌ったり踊ったりして解放を祝った。その光景を撮った写真が実家にあって、幼い弟がGI帽に似せてつくった紙帽子を被ったものがある。今もその写真のことが思い出される。
②私は在日2世なので、1世のように無条件に祖国をいとおしいとは思わないが、民族の1人として南北のいまの状況を遺憾に思う。特に北の在り様については憤慨さえ覚える。民衆を飢えに追いやりながら、核実験や軍事力を強化しているからだ。
③総連からの離脱は日増しに増えていくだろう。しかし、民団もこのままでは弱体化すると思う。いま介護の前線にいるのは女性たちで、女性の忍耐と犠牲の上に成り立っている。婦人会が掲げている福祉事業、なかでも老人ホームの建設を急いでほしい。
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海に集った同胞たち
朴鐘仁氏(東京・団体役員・61歳)
①青い海を背に翻る太極旗、やぐら舞台の意味不明の演説、素足に熱い砂浜、スイカ割り。小学校に入る前の記憶だ。横浜支部だったので、8・15式典はよく湘南海岸で開催された。同胞たちは近所ごとに集まっては、朝から酒を飲んで気勢を上げ、バスで繰り出した。どの家も家族全員で参加した。もっと幼い頃、幟をたてたトラックの荷台に同胞たちが鈴なりになり、暑いさなか砂埃を立てて走っていったのを見た。それが私の最初の光復節の記憶だろう。
②光復とはそもそも、民族統合による独立、建国であったはず。祖国・民族の分断を想定していなかった。北韓のあまりに歪んだ政治・経済状況を見ると、統一は本当に必要なのかと懐疑的にもなるが、やはり民族分断は理不尽であり、何かと紛糾をよびやすく民族発展の大きな障害であり続ける。北を韓国化する努力が不可欠だ。その延長線上に統一はある。
③在日同胞社会は今、再編期にあり、新たな結集軸を求めている。しかし、第3の強力な組織体ができる可能性は低い。結集軸としては民団をおいて他にないが、民団は理念的には評価されても、組織性については弱すぎる。昨年の5・17事態でも見たように、安心できないところがある。総連離脱同胞を受け入れられるよう、民団が組織力を高めることがすべてだと考える。
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南北が共に祝える日
金漢一氏(神奈川・新聞記者・43歳)
①出身は福島県。近所の日本の子に「日本は負け。僕らは解放」と、著しく他者への配慮を欠いた言葉をぶつけた幼年時の記憶がある。在日にとっては、珍しくポジティブな要素だったので嬉しかったのかも知れない。父に連れられてよく記念行事に参加した。恥ずかしながら、テーブルに並んだシルトッや、会場で乾物を売っていたおばさんの記憶だけが強く残っている。南北がともに祝える日という印象がある。
②マッコリのガイドブックや北の鉄道の本が出版されるほど情報が氾濫し、より近い存在になってきているが、ある意味その量だけ希薄になってきた気もする。これからも南北両側の動きにはしっかりと喜怒哀楽を示していきたい。
③在日外国人が200万人を超える中で、長年の活動の歴史、そのノウハウから積極的に在日外国人の「幹事役」を務める必要があるのでは。ただし日本社会への貢献という視点を失わずに。日本を豊かに出来る存在という気概を持つくらいでいいと思う。
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その日を鮮明に記憶
鄭源生氏(秋田・会社経営・74歳)
①祖国が解放された1945年8月15日の記憶が、なんといっても鮮明だ。「ヘバンイ テッダ」(解放された)「ヘバンイ テッダ」と、あちこちで叫ぶ声が聞こえた。国民学校生だったので最初は何の意味か不明だったが、しだいに理解するようになり、子供心にも感激の喜びにあふれた。
②祖国分断が民族のネックであることは疑いない。民族的な立場に立ち、協調しあうことが重要だ。自民族にとって分断・対立の状況がどれほど損失であるかを考えたい。
③最近、朝鮮総連にとって逆風が吹き大変な状況だ。同胞の資産を守るには本国の応援があってよい。この厳しい状況を乗り切るためには、在日同胞が一丸となって協力しあう姿勢が必要だ。
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先達の痛み忘れまい
李美代子さん(大阪・「ウリマルハプシダ」代表世話人・66歳)
①光復節は祖国の独立と復興発展への輝かしい節目ではあっても、日々の生活に追われる私にとって、祭典そのものに対する感慨は別にない。
②独立までの間、私たちの先達が蒙った数々の痛みを想うとき、いまも胸が痛む。そのひとつが「慰安婦」の問題。この許し難い行為がいまだに解決されないでいる状況についてもまた、悲しく思う。
③総連に属していた人たちにとって、日本人拉致の事実を明かされたとき、その衝撃と失望はどんなに大きかったことだろうか。ここで覚醒した総連系同胞たちは父母、祖父母の出身地を訪ね、自分の血筋の親戚たちに会ってみてはどうだろうか。そのぬくもりによって韓国に対する理解は十分にできると思う。
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民団の必要性を実感
李種洛氏(大阪・団体役員・73歳)
①光復節について昔は「解放記念日」と言っていたと思う。1945年は当時小学校6年。30代の頃、中ノ島公園での式典に参加した記憶がある。正直、2世なので光復節と言われてもそんなに実感はない。
②祖国を意識する時、北とか南とか分けて考えるのではなく、朝鮮半島として意識している。自分の身近な民族と言えば、韓国文化や言葉のことをさし、表札を本名で掲げている。
③在日社会の将来は暗いと言えば過言かも知れないが、世代交代に伴う民団離れや帰化が増えるなど、それほど民団の存在感が薄れてきていると実感。子々孫々までここ日本に住むことを考えると、民団は地域に密着した生活団体として、地域とともに生活していくことが望まれるとともに、団員皆が新たに組織力を高めていかなければならないと思う。
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チョゴリ姿でりんと
李正子さん(三重・歌人・60歳)
①光復節行事には小さいころ、親に連れられてよく行ったものだ。支部ごとにバスに乗り、チョゴリ姿で普段とはちがう雰囲気を味わった。昨年、10数年ぶりに参加したが、形式的な内容にがっかり。議員代理の白々しいあいさつ、あとは歌と抽選会で終わり。せめて講演だけでも行ってほしい。
②祖国は祖国、私たちは在日韓国人。本国志向から早く脱却すべきだ。韓流は歓迎すべきことだが、在日とは関係ない。北のミサイル問題をさも在日の責任のように指摘する日本人がいるが、見当違いの話だ。在日の歴史は100年を数え、5世まで出現している。いわゆる=韓国系日本人=として祖国を客観的に見ていくべきだ。
③日本社会の当たり前の市民として受け入れられる存在になるべきで、平等な環境作りを推進してほしい。自立した少数民族として生きていくには、自立が必要だ。足元の生活基盤を向上させたい。
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わが帰属意識に変化
宋仁浩氏(京都・精神科医・45歳)
①2世の私の中で終戦(敗戦と呼ぶべきと思うが)記念日と言っていた8月15日を、いつ光復節と意識したのか。20代だと思うが、わが民族に帰属意識を持てたのだ。
②統一という第2の(真の)光復節はいつ来るのだろう。敗戦後ドイツは、自らに分断国家の痛みを負いながら、歴史を清算し、周辺国と和解を成してきた。東アジアでは何故か植民地にされた方がさらに分断の痛みを押しつけられ、日本では歴史を大きく歪め、正当化する勢力が権力の中枢を掌握している。
③祖国韓国は大きく変わりつつある。民主化を成し遂げ歴史の清算を推進中。翻って在日団体はどうか。民族的アイデンティティを歴史から学び、過ちときちんと向きあい、1世の苦難の歩みを継承すべきだ。
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映像通じ1世史知る
安市太郎氏(大阪・団体役員・66歳)
①1945年といえば、まだ4〜5歳のころ。学生になってからよく先輩たちから、解放記念日のことは聞いた。式典にも参加したが、韓国の歴史を知らなかったので、正直、実感はなかった。民団に携わるようになり、DVDで当時の様子をみて、アボジやオモニたちの大変さがわかった。
②祖国については、良くなってほしい。歴史など教えられる1世がだんだんと亡くなりつつある中で、民族的誇りを教えられる場として民族学校が重要だ。就職のパイプをもち、積極的にアピールできるようになってほしい。
③在日社会では、地域に密着した組織として、今後の民団のあり方が重要だ。帰化する人が増えていく中で、韓国人としての民族的誇りは忘れないでほしい。
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父の「愛国歌」に誇り
殷鉄培氏(山口・自営業・52歳)
①幼い頃の思い出は、支部が手配したバスに乗り込み、下関の会場に繰り出したことだ。同胞の多さに圧倒された。一番通る大きな声で愛国歌を歌っていた父親が誇らしかった。普段は付き合いのある近所の人たちが見えないので尋ねると「別の場所で集会を開いている」という。民団と総連の所属の違いだった。
②北韓の存在が重過ぎる。狂人としか思えない為政者と取り巻きのせいで、同胞全体が不幸に落とし込まれている。とは言え、「北であれ南であれわが祖国」という一線だけは保っていたい。
③本名で正々堂々と生きていく骨のある同胞社会を築く。地方参政権をはじめ在日の権利制限を続ける日本の政治家に対し、民団は在日の代弁者として落選運動をする圧力団体になってもかまわない。日本社会との関係を対等にするため汗をかくべきだ。
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民族財産を守りたい
金有作氏(民団京都府本部団長・61歳)
①2年前の05年8月、祖国光復60周年と6・15南北共同宣言5周年を記念して、歌手キム・ヨンジャと金剛山歌劇団の公演を行った共同祝祭行事は民団、総聯そして京都市民など約3600人を迎え、歴史上に長く記憶される光復節となった。
長年にわたり熾烈な対立と抗争を繰り返してきた両団体が合同で開催するという画期的な行事。この京都方式が将来に受け継がれていくと思う。
②1947年1月10日に結成された京都民団は、今年、60周年を迎えた。日本の植民地からの解放を歓喜とともに迎えた人々は、その間のつらい経験に反比例するように、祖国と民族の独立に熱い思いを寄せた。ほとばしる情熱と若さで、民団、民族学校、金融機関、商工会議所などの組織を次々と作りあげた1世の方々に深く敬意と感謝を捧げたい。民族財産を次世代にしっかりと引き継いでいくことが、私たちに与えられた使命だと受け止めている。
③京都本部では「共生・人権・平和 多文化共生社会の実現」をスローガンとして掲げている。京都独自の活動として04年度から京都市と民団と総聯の3者による共同文化事業として、韓国・朝鮮文化の紹介と国際交流を目的とするコリアンサロン「めあり」を立ち上げ、06年度には在日コリアンの高齢者・障害者のための福祉向上を目的とする「モアネット」を設立し、福祉・生活相談活動を展開している。
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母が叫んだ「マンセー」
ワン・スヨンさん(東京・詩人・69歳)
①8月15日昼過ぎに近くの川で遊んでいたら「大韓民国独立万歳!!」と叫ぶ声がした。それは確かに母の声だった。母はチマチョゴリ姿で太極旗を振りながら川に近づいた。瞬く間に後ろから大勢の村人達がチャンゴを叩きながら踊りまくった。「ヘバン(解放)だ! ヘバンになった!」という声が山を駆け巡った。母はそれから「大韓民国独立婦人会」を結成した。
②喜びも束の間、ユギオ動乱(朝鮮戦争)の悲劇に巻き込まれた。その傷があまりにも深いのでそれからの光復節は記憶から薄れてしまった。分断された朝鮮半島がひとつになったときに本当の光復と言えるかも。
③総連からの離脱者が後を絶たないのはあたりまえだ。その人々が民団を支持しないのも分かるような気がする。民団にはパワフルでカリスマがあるリーダーがいない。在日同胞が心のよりどころにしたいフトコロがみえない。スマートな組織の魅力を発揮してほしい。
いまは「韓流ブーム」で韓国語が重宝されるし、キムチの匂いがキツイと在日を差別した日本人がキムチに夢中になっている。韓国の国力がこういう時代をもたらした。しかしそれは日本と韓国(本国)とのダイレクトな交流であって、在日は置き去りにされている。
本国では日帝時代の歴史には敏感で関心が高いけど、在日の歴史には認識不足だ。自分のものを大事にしないと他人も認めてくれない。
(2007.8.15 民団新聞)