掲載日 : [2008-01-01] 照会数 : 12507
ご利益は〞韓流〟神社・仏閣で 紙上初詣ガイド
[ ヨン様出演のドラマで一躍、中高年女性に人気の埼玉県の高麗神社 ]
[ 大阪府枚方市の百済王神社 ]
ヨン様ドラマで人気の高麗神社
ヨン様が高句麗大王を演じるドラマ『太王四神記』が日本で放映されるや、埼玉県の高麗神社を訪れる中高年女性が激増したという。高麗(こま)神社の主祭神は高句麗王族の流れを汲むとされる高麗王若光(じゃっこう)で、《ヨン様の子孫》ということになる。韓流人気は「韓流神社」にまで及び始めた。古代からの伝統的古刹・古社は多かれ少なかれ「韓流」と言えなくもないが、ここでは「韓流濃度」の三ツ星クラスを紹介する。
ドラマでヨン様が演じるのは、高句麗の第19代王・広開土王(好太王=本名は高談徳)である。4世紀末から5世紀初め頃に在位し、高句麗史上最も領地を拡大した。韓半島に倭国の軍隊が攻め込んだと読める文言が刻まれている巨大な石碑(好太王碑)を遺し、その解釈をめぐる論争が今も続いている。ヨン様ファンより古代史ファンに有名だった。
高麗神社の祭神・高麗王若光は、実は高句麗王族(高氏)の血縁かどうかはっきりしていない。しかし、有力氏族の首領であったことは確かで、宮司さんは代々、誇り高く高麗氏を名乗り祖先を祀ってきた。若光は埼玉県に落ち着く前、神奈川県大磯町に上陸し滞在していた。若光の足取りを逆上り、大磯・高来(たかく)神社から見ていこう。
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関東では大磯から
ルーツは渡来人
高麗王ゆかりの高来神社
かつて韓半島最強だった高句麗は西暦668年、新羅と唐の連合軍に滅ぼされた。その直前の660年には、百済が同連合軍に滅ぼされている。663年天智天皇は、日本に逃れていた百済王族らとともに百済再興のために韓半島に大軍を送るが(白村江の戦い)、そのときも新羅・唐連合軍に大敗する。
こうして祖国を失った百済や高句麗の王族、貴族、遺民たちが、大量に日本に渡来してきた。彼らは当初、近畿各地に滞在していたが、飛鳥時代後半から奈良時代、その一部は開拓のために東国(関東、東海地方や東北南部)に送られた。彼らが先進的技術を持っていたからだ。高麗郷の巾着田はその代表例である。
高麗王若光の一行は、まず相模国(神奈川県)大磯に上陸した。高来神社の大祭(7月18日)で隔年に飾り船を仕立てて沖に出る渡御が行われるが、そのときの「祝い歌」に、高麗(高句麗)の高貴な人物が大磯に上陸する様子が謡われている。高来神社の境内には明治維新の廃仏毀釈まで高麗寺も存在し、江戸時代まではそちらのほうが有名だった。
大磯には王城山と呼ばれる小高い丘もあって、麓に釜口古墳がある。今は石室が露出しているがかなり大きなもので、これこそ高麗王若光の墓であるという説もある。716年『東国(駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国)の高麗人1799人を武蔵国に遷し高麗郡を置く』と続日本紀にあり、武蔵国への移動は高句麗滅亡の48年後で、若光はここで亡くなった可能性もある。
それにしても高句麗遺民は東国に大勢いた。百済や新羅からの人々はさらに多く東国にいたと考えられており、東国だけでも渡来人人口は相当数だ。子孫はやがて各地に土着し、関東武士などを経て今の関東人となった。
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京都なら八坂神社
冬ソナの舞台とも縁
東国にも大勢の渡来人がいたが、大多数は畿内(近畿各県)に滞在し、彼らはそのまま近畿地方で土着し今は普通の関西人となった。関西・関東に限らず、各地の日本人とはそういうものである。
ところで、最も日本的な都市といえば京都で、その代表的神社は祇園祭りで有名な八坂神社だろう。元来は高句麗系氏族八坂氏の氏神だった。神社の横にぽつんと八坂の塔が建っているが、かつてここには法観寺という大伽藍が存在し、塔はその一部だった。法観寺も八坂氏の氏寺で、付近には高麗門跡が残る。八坂神社や法観寺を建てた八坂氏とは、5世紀頃に京都府南部の狛(高麗=現在の木津川市)にいた高麗氏が北上してきたものと考えられている。
八坂神社の現在の主祭神はスサノオである。ただしスサノオも新羅の牛頭(ごず)山(現在の韓国江原道春川付近)のソシモリに降臨し、その後日本にやってきたとされており、渡来神であることに変わりない。しかも『冬のソナタ』の舞台、春川に縁もあり、ヨン様ファンにとって八坂神社も見逃せない存在だ。
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渡来神や氏神の街
京都・広隆寺や伏見稲荷
京都を代表する神社が八坂神社なら、代表的寺院は日本の国宝第1号の弥勒菩薩が安置されている広隆寺だろう。同寺は新羅渡来の秦氏の氏寺で、古代日本ではほとんど自生していなかった赤松で作られている弥勒菩薩も、新羅で作られた可能性が高い。
関西で最も初詣客が多いのが伏見稲荷大社だ。昨年は三が日で270万人が訪れた(全国で第4位)。稲荷神社の総本社だが、本来は秦氏の氏神である。稲荷神とは五穀豊饒の神で、各地で殖産事業をしていた秦氏ならではの信仰である。
京都(平安京)の生みの親は桓武天皇だが、その生みの母である高野新笠が祀られている北野の平野神社の祭神は百済系である。高野新笠も百済王族の子孫だが、この社の元来の祭神は今木神(いまきのかみ=最近渡来した)、久度神(くどのかみ=たびたび渡来した)、古開神(ふるあきのかみ=いにしえの始祖)の三神で、どれも百済からの渡来神である。
今木神とは日本に仏教を伝えたとされる百済の聖明王だと特定する学者もいる。三神は飛鳥京、藤原京、平城京と遷都のたびに移され、平安京建設で桓武天皇がここに移した。桓武は三神に加え比売神(ひめがみ=高野新笠)も合祀し、「平野の四神」は皇室の守護神として崇敬されている。
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大阪は百済だらけ
王の名残す神社
故国より多い?歴史的施設
大阪市天王寺区、生野区、東住吉区あたりは、律令制制定後は摂津国百済郡で、それ以前から百済系の人々が多く住んでいた。今も百済駅(貨物専用)、百済商店街、杭全(くまた=くだら)町などの名称がそこここに残る。まるで韓国全羅道の都市だ。市内はキリがないので、郊外の百済系寺社を訪ねよう。
羽曳野市に飛鳥(あすか)という地名があるが、ここは奈良県の飛鳥(遠つ飛鳥)に対して、近つ飛鳥と呼ばれている。この地に、百済王族の混伎王(こんきおう)を祭神とする飛鳥戸神社がある。混伎王は雄略大王の頃(5世紀)に百済から渡来した実在の王で、三国史記にも記載がある。今は小さな社が建つのみだが、かつては大神社だった。
藤井寺市には地名のもとになった葛井寺(ふじいでら)があり、近くに辛国(からくに=韓国)神社がある。それぞれ百済王の子孫とされる葛井氏の氏寺氏神で、祖先の百済王を祭っている。
葛井氏系図では4世紀末、百済第16代辰斯(しんし)王の子、辰孫王が日本の応神大王のときに渡来し、その直系の子孫だとしている。百済王家(余氏)の系図では16代・辰斯王の子の記載はなく、第17代は甥の阿 王に継がれ、直系の糸は途絶えている。葛井氏系図で辰斯王で切れた糸がつながることになる。
枚方市の百済王神社は、百済滅亡後に渡来した王族の氏神で、近くには百済寺跡もある。一族は百済王(くだらのこにきし)姓を名乗り、桓武天皇の母・高野新笠もそこから出た。百済王族に関する寺社は近畿に多いが、各地にもあり、宮崎県の神門(みかど)神社はよく知られている。百済王族に関する歴史的施設は、韓国より日本のほうが多いかもしれない。
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日本史をたどれば
善光寺、浅草寺も伝来仏
鹿児島県では霧島市の韓国宇豆峯(からくにうずみね)神社が有名だ。豊前・豊後(大分県)に住んでいた秦氏が隼人(はやと)征伐に駆り出され、そのとき建立したとされる。鹿児島・宮崎県境の韓国岳も秦氏の隼人征伐と関係があるかもしれない。
島根県大田市にはその名も韓神新羅(からかみしらぎ)神社がある。祭神はスサノオで、彼は韓国江原道春川の牛頭山のソシモリに天降り、その後、息子の五十猛(イソタケル)とともに日本に上陸する。神話ではスサノオは出雲に上陸しているが、現地の人々は本当の上陸地はここだと信じているという。
兵庫県北部の但馬や京都府北部の丹後には、新羅系の神社が集中している。
京都府にある溝谷(みぞたに)神社は新羅大明神とも呼ばれ、同市には韓国(からくに)神社もある。そのすぐ隣の兵庫県豊岡市には、新羅の王子・天之日矛(天日槍=アメノヒボコ)を祭神とする出石神社がある。天之日矛を始祖とする人々は古代では出石族と呼ばれていた。
彼らは北九州から若狭までの日本海側各地に分布しているが、有力神社に京都府宮津市の籠(この)神社がある。ここには天之日矛が渡来のときに持参していたという玉、剣、鏡のうちの鏡ではないかとされる銅鏡が現存している。籠神社は「元伊勢宮」とも呼ばれ、伊勢神宮外宮との関係が深いとされている。
琵琶湖周辺では、滋賀県大津市の園城寺(おんじょうじ、通称・三井寺)に隣接して新羅善神堂(新羅神社)がある。ここには新羅から渡来したともいわれる国宝新羅明神像がご神体として安置され、善神堂自体も国宝だ。園城寺と善神堂は元来この地の領主で渡来氏族の大友氏の氏寺氏神で、園城寺には秘仏の弥勒菩薩が安置されているが、それも広隆寺のものと同様に新羅で作られたものかもしれない。
琵琶湖東岸の東近江市には百済寺がある。この周辺は百済滅亡後に渡来した人々が移住し百済系寺院が多い。近くには百済からの有力渡来人、鬼室集斯の墓もある。東海(日本海)沿岸で目立つ白木、白髪、白城、白山などの神社も新羅系だ。
東北地方の宮城県の黄金山神社は、百済王敬福が金を生産したことを記念して建立された。百済滅亡後に渡来し枚方に本拠があった百済王(くだらのこにきし)一族は、東北地方の開拓でも活躍した。
東大寺主祭神
百済の技術者
奈良時代、東大寺の大仏造営中、仏身に塗る黄金が不足していた。749年、陸奥の国守として赴任していた百済王敬福は陸奥国小田郡(現在の宮城県桶谷町)で金を産出し、黄金900両(約12・5㌔)を奈良に送った。主祭神の金山彦命とは、敬福ら百済系技術者たちの総称である。彼らは、現地の地形が韓半島南部にある砂金産出地渓頭の地形に酷似しているので、金の産出に至ったとされている。
韓流濃度が高い寺社はまだまだある。大衆的信仰を集めている長野市の善光寺や東京の浅草寺の本尊も百済伝来仏だ。
韓流ブームのエピローグは、日本史の中に韓流を探すことだろう。現在の国境の内側だけでアイデンティティを主張することの無意味さが見えてくるはずだ。
(2008.1.1 民団新聞)