掲載日 : [2008-01-16] 照会数 : 15769
在日3世スポーツアスリートの「可能性広げたい」
[ 世界のトップをめざそうという若きアスリートたち…趙顕徳選手(左上)、金宏明選手(右上)、金彩華選手(下) ]
フィギュア、サッカー、ラグビー
在日同胞社会で日本のスポーツ界はもとより、さらに先の世界のトップをめざそうという若きアスリートたちが台頭してきている。フィギュアスケートの金彩華さんは世界ナンバーワンの金妍兒選手に次ぐ韓国代表選手で、バンクーバー五輪出場をめざす。サッカーでは金宏明君が祖父の生まれ故郷、慶尚南道を地元とするKリーグ、慶南FC入りの夢を実現した。また、ラグビーの趙顕徳君は身体能力の高さが買われ今春、明治大学から社会人トップリーグの横河電機に就職することが決まっている。全員3世だ。
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バンクーバー五輪出場目指す
フィギュア 金彩華
銀盤の上をカラフルなコスチュームで華麗に舞い、冬季スポーツの華と呼ばれるフィギュアスケート。特に、韓国の金妍兒選手、日本では浅田真央選手など、世界の舞台で10代のヒロインたちが活躍する姿は、韓日両国で空前のフィギュアブームを沸き起こしている。そうしたなか現在、世界ナンバーワンである金妍兒選手に次ぐ韓国代表として昨年末のグランプリシリーズNHK杯でも9位の好成績を残したのが在日3世の金彩華さん(19)だ。
スケートとの出会いは小学校2年生の時。自己主張をあまりせず、おとなしかった彩華さんが「上手にスケートが滑れたらかっこいいだろうなぁ」と憧れ、珍しく両親にスケートを習いたいと頼み込んだのがきっかけだった。
スケート教室に通いだすと持ち前のねばり強い性格でメキメキと上達し、中学時代には全日本ジュニア選手権に出場するまでに成長。また、所属クラブで全日本コーチでもある濱田美栄先生より指導を受けると、彩華さんの才能は一気に開花していった。
そして競技人生の転機となったのは高校1年生の冬、在日本大韓体育会の支援により韓国の冬季国体に初出場すると、在日選手として初めて金メダルを獲得。続いて行われた世界大会の選考会も制すると、日本生まれで日本に居住する在日韓国人選手が、フィギュアスケート韓国代表に選ばれる史上初の快挙を成し遂げた。
「初めて祖国で競技をした時は、言葉も分からず緊張しました。だけど演技を終えた後、大きな声援と会場から花束やチョコレートが投げ込まれ感動しました」。
その後は金妍兒選手とともに韓国代表として各種国際大会に出場。06年の世界ジュニア選手権では7位入賞を果たし、金妍兒選手が欠場した昨年の韓国フィギュアスケート選手権では見事に優勝を飾った。
こうした活躍が認められ、彩華さんは在日本大韓体育会の働きかけで、韓国氷上競技連盟より正式に選手登録が認められ、また、本国の大韓体育会から体育奨学金の支給も受けられるようになった。
これは在日選手が日本のクラブに所属したまま本国で選手登録され、奨学金を支給される初めてのケースとなった。
彩華さんは昨年、トリノ五輪日本代表、世界選手権2位の高橋大輔選手らが所属するフィギュアの名門・関西大学に進学。現在はさらなるレベルアップを目指し、厳しいトレーニングに励んでいる。
「昨年のNHK杯では韓国代表として、世界のトップ選手と一緒に試合をすることができ、いい意味で刺激を受けました。得意のスピンでは世界レベルの得点を取れるようになったが、これからの課題は苦手のジャンプ。特にルッツとフリップの精度を上げていきたい。そして、今はまだ足元にも及ばないが、一歩一歩着実に進化し、金妍兒選手に少しでも近づけるよう頑張りたい」。
韓国代表としての抱負を聞いてみた。彩華さんは、「韓国の大会に出場し、また韓国代表として国際大会に出場することによって、自分は韓国人なのだと実感しました。スケートは私に祖国に触れる良いきっかけを与えてくれた。そのチャンスを活かして、韓国語が話せるようになりたい。スケート人生が終わっても韓国と繋がっていたい。そして最終目標は、2010年のバンクーバー五輪に出場すること。世界最高峰のリンクで、韓国代表として氷上を舞うことができれば最高です」と話すなど静かな闘志を燃やしている。
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慶南FCが新人ドラフト指名
Kリーガー 金宏明
金宏明(23)が韓国に足を運んで2年目。ついにKリーガーの夢を果たした。それも、祖父の生まれ故郷、慶尚南道のチームだ。
宏明は昨年11月15日に行われた「2008Kリーグ新人ドラフト会議」で慶南FCに番外指名された。
東京葛飾区生まれの在日3世。サッカーを始めたのは小学校のころからだが、子どものころの夢は、実はプロ野球選手だった。転機になったのはJリーグの誕生だ。
「当時、リトバルスキーの華麗なドリブルがとても印象的だった。夢を一気にサッカーへと転向させました」。
学校とクラブチームを両立しながら着々と実力をのばしてきた。そして、韓国サッカーへの道を意識し始めたのは、サッカーの名門、流通経済大学に入学してからだ。流経大は韓国の大学とも姉妹結縁を結んでおり、相互交流訪問が活発。
そんな大学時代の05年、蔚山国体に在日同胞代表として出場し、チームを優勝へと導いた。翌年3月、済州道西帰浦で開かれた韓国大統領杯にも在日大韓蹴球団(宋一烈団長)の一員として出場した。このとき「韓国でサッカーをやってみたい」と決心した。
チーム自体は1勝1分け1敗で決勝トーナメント進出を逃したものの、活躍ぶりはナショナルリーグ(日本のJ2)、仁川韓国鉄道の李ヒョンチャン監督の目にとまり、その年の夏、韓国鉄道に入団した。
しかし、名門チームだけに新人の出場機会はそうあるものではない。韓国鉄道での1年余りの生活を後に、瑞山オメガに移籍した。
昨年夏、大きなチャンスが巡ってきた。慶南FCから在日大韓蹴球団の宋団長に「優秀な在日同胞選手の受け入れを準備している」との申し入れがあった。
在日大韓蹴球団に所属していたチームメート3人とともにテスト生参加したが、宏明の身体能力は高く評価された。そして、今回の新人ドラフトで慶南FCが正式に指名して、韓国トップリーグへの夢が実現した。
「ナショナルリーグから一段階アップでき、とても満足している。Kリーガーへの夢がかない、また、祖父の生まれ故郷である慶尚南道でプレーできるというのがすごくうれしい」。
宏明は身長171㌢㍍。小さい選手でも可能なスピードと瞬発力で勝負していきたいと、こう話した。
「サッカースタイルの違いにとまどった。日本の器用さに比べ、韓国は速さ、当たりの強さ、球際の強さ、最後の一踏ん張りの強さがすごかった」。
「レギュラー争いは容易ではないことは重々覚悟している。今からがスタート。僕がしっかり活躍してこそ、後輩たちへと続くことを肝に銘じて命がけで臨む」。
大好きな選手はイタリア代表のガットゥーゾとアルゼンチン代表のテベス。二人とも身長は低いが、豊富なスタミナでピッチを縦横無尽に走り回り、激しい当たりでボールを追い掛け回す。
「誰にも負けない熱い魂を持ちながら、チームとして必要な存在、そんな選手になることが僕の目標です」。
好物は焼き肉、レバ刺し、ユッケ。「スタミナ回復のためにも、ニンニクは絶対欠かせられないですね」。
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明大から社会人トップリーグへ
ラグビー 趙顕徳
楕円形のボールを敵陣に持ち込み、地面につけるトライの数やペナルティーゴールの数の多さで勝敗を競うラグビー。高校球児が甲子園をめざすように、高校ラガーは聖地・花園でプレーすることを夢見る。趙顕徳君(22)もその一人だった。
大阪朝鮮中学ではサッカー部に所属していたが、高校進学後、「何か新しいスポーツをしたい」と思っていた矢先に兄の友人に勧められ、球技プラス格闘技の魅力にはまっていった。
ポジションは走力と必殺タックルが求められるフォワード後列6番のフランカー。2年生でレギュラーの座を射止めた。
3年の夏に高校代表に選ばれ、オーストラリア遠征が決まった。その時点では「朝鮮籍」だったが、将来のことを考え、一家そろって韓国籍に切り替えた。「感慨も葛藤も特になかった」。
その年の冬には、大阪朝高にとって初めてとなる花園への切符を手にした。2回戦で敗退したものの、そのプレーは高校代表を指導した小村淳ヘッドコーチ(明大、神戸製鋼で主将)の目にすでに留まっていた。「一緒にラグビーをしないか」と言わせたほどだ。
04年、ラグビー人気を早稲田大学とともに支えてきた明治大学にセレクションで進学した。縦に突進するフォワードの明治、横に展開するバックスの早稲田という対照的な戦いぶりは伝統の一戦と呼ばれ、数々の名勝負がファンの血を熱くたぎらせてきた。毎年12月第1週の日曜日に行われる早明戦は、大学の定期戦では唯一国立競技場で行われる。伝統と人気が下地にあるからだ。
この早明戦に1年生でいきなりレギュラー出場した。重戦車と呼ばれる明治の大型フォワードの中では、181㌢、85㌔の体は決して大きくはない。体格よりアスリートとしての身体能力の高さが買われたことは疑いない。
1923年創部の明大ラグビー部80余年の歴史の中で、朝鮮学校出身者がレギュラーを勝ち取り、国立競技場に本名を掲げたのは前例がない。相当なプレッシャーがあったと想像するが、本人は「まったく緊張しなかった」と言い切る。
だが、明治は00年から早稲田に連敗が続き、一時期は抽選でしかチケットが手に入らず、ダフ屋までが繰り出した「黄金カード」も、今では当日券も余るほど人気に陰りが見えてきた。「明治は遠くなりにけり」と揶揄されるほどの低迷ぶりが原因だ。
「大らかさは明治の長所でもあるが、早稲田のような緻密さも必要だ」と痛感しながら迎えた07年12月、4年生最後の早明戦は、副主将ながら頚椎負傷で欠場を余儀なくされた。
結果は歴史的大敗だった。8連敗中の早稲田にリベンジするには大学選手権に勝ち残るしかなかったが、08年1月2日、負傷から復帰した慶応との準決勝で惜敗。打倒早稲田の悲願はついにかなわず、紫紺のジャージーに袖を通すこともなくなった。
「試合には負けたが、明大韓文研のOB会から合宿所に差し入れをいただくなど、全国の同胞の声援は心強かった」と謝意を示す。
自分に自信がもてるようにしてくれたラグビーは、社会人になっても続けていく。昨年、トップリーグに昇格した横河電機が就職先だ。
(2008.1.16 民団新聞)