掲載日 : [2008-04-02] 照会数 : 6233
<源氏物語>千年紀in湖都大津に寄せて
[ 源氏物語の構想を練ったとされる石山寺 ]
[ 同寺に建つ紫式部像 ]
濃密な渡来人との縁
『源氏物語・千年紀in湖都大津』が3月18日から始まった。12月14日まで、多彩なイベントが繰り広げられる。源氏物語にある「光源氏の名付け親は高麗人」という記述に寄せて、近江と渡来人との深い関係を考える千年紀とするのも悪くない。紫式部が源氏物語の構想を練り、物語誕生を祈願したのが大津市の石山寺とされている。『紫式部日記』によって、西暦1008年には源氏物語の執筆が確認されており、今年がその1000周年、「千年紀」ということになる。
光源氏名付け親
「日本人とは」司馬遼太郎も探究の地
源氏物語第一帖「桐壷」では「高麗の相人」という人物が重要な役割を果たしている。ときの天皇(桐壷帝)の第二皇子はたぐいまれな美貌の持ち主で、彼の将来を案じた天皇は、高麗人の相人(観相学を行う占い師)に皇子の未来を占わせた。相人は、「帝王の位に上るほどの顔相だが、そうなれば世が乱れるかもしれない。かといって、補佐役という相でもない」と告げた。その託宣に天皇は、災いを避けるという理由で皇子を臣籍に降ろし、源氏を名乗らせる。
だが、高麗の相人が皇子の美貌をあまりにもほめそやすので、彼は「光の君」と呼ばれるようになった。『光る君といふ名は、高麗人(こまうど)のめできこえてつけたてまつりけるとぞ言ひ伝へたるとなむ』と「桐壷」帖の最後に書かれている。高麗の相人は、光と源氏それぞれの命名に関係し、彼の運命をも暗示させる重要な役割を担った。この高麗人とは渤海人のことと考えられている。
紫式部が源氏物語の構想を練ったとされる石山寺は、瀬田川を瀬田の唐橋(からはし=昔は韓橋とも呼ばれた)から少し下ったところにある。鎌倉時代の『石山寺縁起』によると、奈良時代の僧、良弁が琵琶湖畔に祀られている比良明神の導きにより建立したとある。
良弁の出自は「姓は百済氏、近江の志賀の人、または相模の漆部氏」とあり、百済系渡来人の子孫である。比良明神とは琵琶湖畔・高島市の白鬚(しらひげ=新羅)神社に祀られている白鬚神。こちらは新羅系だが石山寺建立にかかわった僧・神とも渡来系である。百済氏は「志賀の漢人(あやひと)」と呼ばれる、今の大津市あたりに居住していた渡来系氏族グループの一つだ。
こだわり紀行「街道をゆく」
琵琶湖を取り囲む近江の国そのものが、まるごと渡来人の里だと強く主張していたのが司馬遼太郎である。96年に亡くなった司馬遼太郎が生涯をかけたテーマとは「日本人とは何か」だった。それは全ての作品に共通している。
中でも紀行文集『街道をゆく』は問いに真正面から挑んだ作品だった。71年1月から週刊朝日で連載され、本人の強い希望で最初のシリーズは琵琶湖畔「湖西のみち」となった。湖西をたどりながら「日本人はどこからきたのだろう」と彼は問い、はるか昔に韓半島から渡来した人々にその答えを求めている。
「『朝鮮人などばかばかしい』という、明治後できあがった日本人の悪い癖に水を掛けてみたくて、私はこの紀行の手はじめに日本列島の中央部にある近江をえらび、いま湖西みちを北へすすんでいるのである」。彼が近江を選んだ理由は明快だ。「この連載は、道を歩きながらひょっとして日本人の祖形のようなものが嗅げるならばというかぼそい期待を持ちながら歩いている」
そして近江の風景は、彼の期待に応えた。「われわれに可視的な過去がある。それを遺跡によって、見ることができる。となれば日本人の血液のなかの有力な部分が朝鮮半島を南下して大量に滴(したた)り落ちてきたことはまぎれもないことである。その証拠は、この湖西を走る車の窓のそとをみよ。無数に存在しているではないか」と記している。
あえて飛鳥や奈良や京都ではなく、近江こそ作家の問題意識を実現するのに最もふさわしい場所であった。
また別の本では、「近江と朝鮮からの渡来人には濃密な関係がある。幼少期、竹内村(奈良県)での発掘遊びが朝鮮渡来の神々への関心を引き起こした。関東武士の原型は朝鮮渡来人である。古代葛城の地の豪族・鴨族は朝鮮渡来系である。長州人に特有の思考法は朝鮮半島の影響によるのではないかと想像される」と記した。
近江、竹内、関東、葛城、長州の5回のシリーズはそっくりそのまま「街道を行く」第1巻に収まっている。そして第2巻「韓のくに紀行」へと続く。さらに「韓のくに紀行」は、近江の鬼室集斯(百済滅亡により渡来した百済王族)の墓がある鬼室神社を訪ねて終わる。作家の問題意識は円環し、その初めと終わりに「近江」があった。
琵琶湖周辺にゆかりずらり
百済滅亡直後、天智天皇は大津宮に遷都した。そこは当時「志賀の漢人」と呼ばれていた渡来人集積地そのものであった。その北側、大津京の大極殿跡とされている場所は錦織氏、その北に最澄の実家である三津首(みつのおびと)氏、さらに上村氏、錦村氏、百済氏と続き、宮跡最北部の穴太(あのう)氏の本拠・穴太にはオンドル遺跡まである。どの氏族も百済系と推定される。
湖北には新羅系の白鬚神社、湖東には新羅系秦氏の集積地などがある。琵琶湖を取り囲む近江の地は、まさに「渡来人の里」である。
(2008.4.2 民団新聞)