掲載日 : [2008-05-14] 照会数 : 7618
統一問題への視点(3) 在日同胞の立場から
[ 1991年9月5日に開かれた初の首相会談で握手をする韓国側(左)と北朝鮮側代表団祖国 ]
「国家連合」と「連邦」(上)
主権の帰属に根本的違い
南北総選挙を回避
体制の保持優先する北韓
統一国家に至る前段階の南北接合方式について、韓国の公式見解は「国家連合」であり、北韓のそれは「連邦」である。
「連邦制」は一般に、強い権限を有する二つ以上の地方政府で構成され、その上位に置かれる連邦政府は、外交・国防・経済など全地方政府にかかわる仕事を担い、国家主権を行使する。完全に独立した国家による国家連合でもなく、強力な中央政府を戴く統一国家でもない、その中間的な国家形態が連邦制と言えるだろう。
「国家連合」は定義が難しいとされているが、欧州に数多く存在した「物的同君連合」(複数の国を一人の君主が統治する「同君連合」のうち、条約などによってできた国家システム)は国家連合の一形態であり、歴史としては古い。今日では一般的に、複数の主権国家による連合体とされ、構成国はそれぞれ主権を維持し、国家連合そのものが主権国家とはならない。
共和制国家で最初の国家連合を構成したスイスは、後に連邦制をとった。アメリカ合衆国も独立当初の国家連合を経て、中央集権的な連邦制へと移行した国である。歴史的には、国家連合から連邦制へばかりでなく、連邦制から国家連合へと移行するケースもあった。ソ連邦の解体後、その構成国が緩やかな国家連合として独立国家共同体を形成したことなどがそれに当たる。
統一阻害の高麗連邦制
いずれにせよ、統一国家を頂点とする制度面から見れば、国家連合は連邦より低い段階にある。2000年の6・15南北共同宣言が「南側の連合制案と北側の緩やかな連邦制案には共通性がある」としたのは、そのような理由からだ。
しかし、国家連合と連邦は、似て非なるものである。韓半島の統一方案に即して見れば、本質的なところで際立った違いがある。二つの方案について考えよう。まず、北韓が1980年10月に提起した「高麗民主連邦共和国統一方案」の骨子はこうなっている。
①南北の思想と体制をそのまま認め、双方が同等に参加する民族統一政府を組織し、そのもとで南北が同等の権限と義務を持つ地方自治制を実施する②双方同数の代表と適当数の海外同胞代表で最高民族連邦会議を構成し、そこに連邦常設委員会を組織して南北地域政府を指導する③高麗連邦はいかなる政治的・軍事的同盟やブロックにも加担しない中立国となる④南北は軍を統合して、南北のいずれにも属さない単一の民族連合軍を組織し、連邦政府が統一的に指揮する。
これ以降に追加提案はないことから、「高麗連邦制」が現在までも北韓の公式見解ということになる。ところで、北韓が「連邦制」を初めて提議したのは60年8月のことだ。そこでは「民主主義的な基礎のうえでの自由な南北総選挙の実施が平和的祖国統一の最も合理的かつ現実的な道」であるとしつつ、「南がこれを受け入れがたいとするならば、過渡的な対策としての南北連邦制の実施」を呼びかけていた。
60年と80年では明らかに異なる。60年提議では、「自由な南北総選挙」が合理的で現実的な統一への道であり、「連邦制」はあくまで「過渡的な対策」に過ぎなかった。しかし80年提議では、南北総選挙と「連邦制」以後についての言及がない。これは「連邦制」が「統一」の最高・最終形態であることを意味する。南北総選挙を回避し、「思想と制度」の違いを強調して、北韓の体制保持を優先しようとしていることが分かる。
段階的発展経た連合案
韓国の「国家連合案」の場合、そこに至る道筋は直線的ではなかった。李承晩政権は、国連が認定する正当政府の立場から、北地域のみの選挙による併合をうたった。4・19学生義挙後は、南北総選挙や中立化統一論などが幅広く主張されるようになった。
朴正煕政権は「先建設・後統一」を掲げて経済建設を優先し、北韓に「善意の競争」(70年8月)と「南北不可侵協定」(74年1月)を提議した。「勝共統一」から消極的な「平和共存」路線への転換と見なせる。72年には7・4南北共同声明が発表された。
全斗煥政権の「民族和合民主統一方案」(81年1月)は、双方住民の意思を代表する「民族統一協議会議」を構成して統一憲法草案を策定、自由な国民投票によって統一憲法を制定し、その憲法のもとで総選挙を行い、統一国会と統一政府を樹立しようとするものだ。統一までの実践措置として、緊張緩和と交流・協力の推進を盛り込んだ「南北間基本関係に関する暫定協定」の締結も呼びかけている。
こうした積み重ねのうえに「南北連合国家(国家連合)」が登場するのは、盧泰愚政権の「韓民族共同体統一方案」からだ。南北の対話を通じて民族共同体憲章を採択、南北連合を構成して統一憲法を制定し、総選挙を通じて「統一民主主義共和国」を樹立するとの道程が示された。
87年の「6月民主抗争」の洗礼を受けて誕生した盧泰愚政権は、ソウル五輪の成功に向けて東欧諸国との関係を改善する北方政策を展開し、対北姿勢も消極的「共存」から積極的な「共存共栄」に転換させた。北韓を「善意の同伴者」と位置づけ、例えば「南北交流協力に関する法律」を成立させ、統一部長官を委員長とする「南北交流協力推進協議会」を設置、南北交流に備えて対北関連法を整備した。続く金泳三政権も積極的共存政策を拡大させ、初めての大規模支援も行っている。
盧泰愚、金泳三政権にかけて、統一憲法による南北総選挙の前段階として、「国家連合」が明確に位置づけられた。「韓民族共同体統一方案」では▼南北首脳会談▼双方同数の南北閣僚会議▼双方同数の南北評議会▼共同事務所の設置が国家連合の骨格をなす。南北は独自国家として主権を持ち、それぞれの対外的な同盟関係は維持される。
韓国の言う国家連合はあくまで、統一国家に至る過渡的な位置づけであり、南北統一総選挙の準備機構として設定されているのに対し、高麗連邦制は統一総選挙を回避したまま、それをもって南北接合の最高形態とする。よしんば、そこから統一へと発展するとしても、高麗連邦は極めてリスクの高い選択だ。
(2008.5.14 民団新聞)