掲載日 : [2018-08-08] 照会数 : 6475
時のかがみ…「8月は朗読の月」津川泉(脚本家)
朗読劇とは…本読みと読み合わせは違う
8月は朗読の月である。6日広島原爆忌、9日長崎原爆忌、15日終戦記念日。平和を祈る朗読の催しは毎年各地で行われる。
こんな俳句がある。
「八月や六日九日十五日」(注①、②)
朗読というと、じっと頭を垂れ、静かに耳を傾けるイメージが浮かぶ。しかし、朗読劇(ドラマリーディング)となるといささかおもむきが違ってくる。
「はじめて韓国現代戯曲ドラマリーディング公演観ました。台詞が際立っていて、つくりこんだ通常の舞台よりも面白いと思いました。台本をもって演じるねらいは演出ですか?」
この3月に行われた日韓演劇交流センター主催の公演「ぼんくらと凡愚」(金相烈作・拙訳・シライケイタ演出)の感想である。
実際に御覧になった方はご存知と思うが、ドラマリーディングは一人の朗読者によるスタティック(静的)な読み聞かせ、いわゆる傾聴志向の朗読ではない。
演出家が入り、それぞれの役を演じる役者と稽古を重ねる。朗読劇と言えども動きが入り、舞台空間に作品世界を再構築することに心血を注ぐからである。ただ、台本は手にしているが。
そうして立ちあがった世界が前述のような感想につながったのだと思う。
先の質問に私はこう答えた。もちろん、台本を持つのは制約条件の一つで演出ではない。淵源を辿れば西欧のサロンでの作家・詩人・劇作家による自作朗読会のようなものではないか。いわば、戯曲の内容見本? 試演会?
また、こんな解釈もあろう。ひとりの演者と鼓手によるパンソリが分唱化して唱劇が生まれたように、一人で何役も演じる代わりに役を振り分け、動きや見せる演出を加え、今のドラマリーディングの形になったと。
舞台に役者が現れ、運命に抗って生きる姿を見ることが、演劇の原初的な感動ならば、ドラマリーディングはその端緒の形態といえるのではないか?
自作朗読というと思いだすのが、ラジオドラマの本読みである。作者が稽古場で役者たちを前に台本を読んで聞かせることをいう。 久保田万太郎、真船豊などは本読みの名手と呼ばれ、出演者たちはその読みに神妙に耳傾け、間の取り方や語尾の「……」まで逐一、台本に記しをつけ、作者の心情を汲もうとしたという。
今では本読み=読み合わせとなって、作者ではなく、はじめから役者が読む。本読みと読み合わせが別物だとは、現役の役者でも知らない人が多い。隔世の感がある。
(注①)炎暑の残る八月だが、立秋を迎えるため季語では秋に分類される。
(注②)この俳句については、類句が多く、最初の発表者を探した『「八月や六日九日十五日」を追う』小林良作著(「鴻」発行所出版局、FAX047・366・5110)をご覧ください。
(2018.08.08 民団新聞)