掲載日 : [2004-08-15] 照会数 : 6044
世界に響く在日の調べ 陳昌鉉さん(74)
[ 「東洋のストラディバリウス」と称賛される陳さん ]
[ 『天上の弦』山本おさむ著、小学館530円(税込)℡03・3230・5500 ]
バイオリンと8・15の思い語る
真剣に生きた証し…民族の誇りを失わずに
バイオリン制作の世界的権威、陳昌鉉氏(74)が脚光を浴びている。在日歴60年の半生は、貧困や就職差別をはじめ、苦難の連続だった。ところが、逆境をバネにしたバイタリティーあふれる生き様と今日の成功は、在日だからこそ可能だったと語る。少年の頃の好奇心を今も忘れず、大自然と対話をしながらバイオリンづくりに励む在日ウェーブの担い手だ。
「荒城の月」に心ゆさぶられ思い胸に来日
−−そもそもバイオリンとの出会いは。
1930年代の半ばに初めてバイオリンの音を耳にした。それは、いんちき商売と嘲笑されていた薬売りの行商が、客を呼び込む手段としてあたりに流したものだった。今思っても決して音楽とは言えない代物だったが、それでも、クギづけになった。
とは言え、警官のような強い存在になることを要求する父親は、絶対に「軟弱」な音楽などを認めない人だった。バイオリンとの縁が切れかかったが、母が一時期日本で働いたことがあるという理由で、わが家に日本人教師が居候するようになった。
その先生が持ち込んだのがバイオリンだった。「荒城の月」などを教わった。見よう見まねで弾き夢心地になったが、生きるためには勉学を全うせねばならず、14歳で単身日本にやって来ることになった。バイオリンとの縁はそこで切れた。
輪タク引きの合間にラジオ夜は大学通学
−−ところが絵に描いたような苦労の連続が待っていた。
昼間は輪タク引きなどでくたくたになるまで働き、夜は大学へ通う日々だった。お客のいない待ち時間にバイオリンの音をラジオで聞き、クラッシック音楽の中毒になったが、すでに二十歳を過ぎていたので、絶対音感がないと気づかされた。
演奏家になる夢は遠のいていったが、零戦戦闘機の設計者からバイオリン設計者に転身した教授の講演を聴く機会に恵まれた。当時は半島人と言われていた朝鮮人であるために、明治大学で教職課程を専攻し、進駐軍仕込みの英語を武器に付属校の教師にとも思ったが、国籍が違うことで何の役にも立たなかった。
就職口がどこにもなかったことと、人生の節目節目にバイオリンがからみついてくる不思議な因縁を痛感し、同胞の誰もが思いつかないバイオリン職人になってみようと真剣に思い立った。洋楽ブームにも乗ってバイオリンが流行っていた時代でもあった。
好奇心燃やしバイオリンに独学で挑んだ
−−「思う一念岩をも通す」でもないと思うのですが。
弟子入りしようにも朝鮮人だからと断られ続けた。教科書もない、親方もいない。ならば、独学でやるしかなかった。独学でバイオリンを製作する技をどう身につけたかとよく聞かれるが、小さい時から人一倍好奇心が旺盛で、おもちゃを買ってもらえるはずのない時代に森に行っては自分で木を切り、作って遊んでいた。歳はとったが、好奇心は今もあの頃と変わらない。好奇心は可能性の出発点だ。
森の中で風にそよぐ木や葉の揺れ方を見ていると、あの木からどういう音が生まれるだろうと興味が湧いてくる。私のバイオリンづくりの答えは、自然の中にあると感性が読みとってくれる。
−−これまでの人生で支えとなったものは。
在日というマイノリティーの環境にいたこと、そして母の愛、優しさが大きい。日本人のように職業制限がなく、自己実現ができる立場だったら職人に執着せずに道を切り替えていたかもしれないし、要領よく立ち回ったかもしれない。
だが、一度しかない人生をこざかしい打算で左右されたくなかった。貧すればどんするという生き方は、私の哲学に反する。私は世の中には不要なものは何一つもないと確信している。生きとし生けるものすべてに意味がある。犬や猫だって人間をいやす力がある。
母の愛を思い多くの同胞に報いたかった
私が懸命に生き、能力が認められることで、故郷の母を喜ばせたかったし、夢をかなえることができずにこの世を去った多くの同胞らに報いたかった。
だから地元の警官が過去に二度ほど真剣に帰化を勧めたが、私は日本人になったらバイオリンが作れなくなると言って断った。これまでの生き方を曲げるわけにいかないし、母を悲しませるわけにいかない。
−−光復節を迎えて思うことは。
36年間の植民地支配の間に、私たちは従順にも皇国臣民になりさがった。解放は博多で迎えたが、日本人が気抜けしているのに、同胞の大人たちがあんなに踊り狂うのを初めて見た。能力を身につけるために上京して今日の私があるが、光復節を在日の原点だと思う人間にとって、あの日の感激が時代とともにしぼんでいくような同胞社会の現状は残念だ。
能力を磨けば差別の壁崩し進路は開ける
在日だからこそとぎすまされた感性で日本人には真似できないことをやろう、差別という壁を切り崩していこうとこれまで頑張ってきた。世界119カ国を回り、いろんな人、自然に接したが、世界の変革はユダヤ人に代表されるようなマイノリティーが実現してきたこともわかった。
在日の可能性や幸福追求のために、帰化をした方がいいかのような考え方は大きな勘違いだ。試練というハードルを乗り越えていくと、そのつど天が力を与えてくれる。マイノリティーであることをハンディキャップと思うのではなく逆に強みにして、不可能を可能にすることによって生きる道を探すことだ。数の上では日本人にはかなわない。だが、能力を磨けば道は開かれる。私は決してあきらめなかった。
600通届いた感想文の中に在日評価の声
−−半生が本になり、漫画にも描かれ、ドラマにもなります。
夢中で生きてきた自分の人生が、日本の若い層にも共感を広げ、客観的に評価されるとしたら、率直に言って嬉しい。苦労した甲斐があったと思う。
NHKラジオの番組「私の本棚」で取り上げられたところ、トラックの運転手が感動して泣いたと聞いた。
出版社に届いた600通を越える手紙の中には、在日の存在を初めて知った、見直したという言葉もあった。運がよかったとも言えるが、真剣に生きてきたことの証しだと思う。
−−在日1世とバイオリン職人というのが、すぐには結びつきにくいのですが…。
決して偶然ではなく、在日だからこそできた奇跡、必然だと思う。というのは、バイオリン職人に限らず、物をつくる職人という身分を蔑む韓国にいたら、まずなれなかった。
当時は、植民地時代を反映してか、慶尚北道金泉のような田舎町でも警察官のような強い職業にあこがれる傾向が強かった。
父親は警官になりたいと言った兄には優しかったが、小さい時から体が弱く、将来百姓もできそうにもない教師志望の私のような子どもは眼中になかったようだ。日本に来たことで道が開かれたと感謝している。
■□
草剛の主演でテレビドラマに
苦難を支えた音楽 不屈の情熱と人間愛
韓国慶尚北道金泉に生まれ、14歳で日本に渡ってきた。太平洋戦争や韓国戦争、民族分断の苦悩や差別にまみれた在日1世の典型的な一人だ。輪タク引きやダム工事の人夫をしながらバイオリン制作に励んだ男が、世界に冠たる「無鑑査マスターメーカー」になり、「東洋のストラディバリウス」と呼ばれるまでになった。
波乱万丈の陳昌鉉氏の人生には、不思議なことに常に音楽が絡み付いていた。めげずに生きてきた心の糧が音楽、バイオリンだった。
陳氏の語りを1冊の書籍にまとめた「海峡を渡るバイオリン」は2002年に発売され、そのバイオリンに対する不屈の情熱と人間愛は、多くの読者に感動をもたらしている。
「クラッシック音楽の楽器づくりという閉ざされた世界にまったくの徒手空拳で挑みながら、自分の夢を達成してしまったすごい人物の物語」
「彼の情熱もさることながら、奥様のサポートには絶大なものを感じる」
「語り尽くせないほどの苦労を乗り越えてきたはずなのに、文中には悲壮感がまったくない。素直に著者を祝福したい気持とこの本との出会いに感謝する気持で一杯になった」などの声だ。
また、漫画家・山本おさむ氏が陳氏への綿密な取材をもとに描いたコミック「天上の弦」は、幅広い年齢層に支持され、連載中のビッグコミック(小学館)誌で常に高い人気を誇り、韓国や台湾でも愛読されている。
そして今秋、「海峡を渡るバイオリン」は最高の制作陣とキャスティングでドラマ化される。
02年、フジテレビに送られてきた「この本をテレビで取り上げてほしい」という一通のメールを読み、「海峡を渡るバイオリン」を手にした「北の国から」の企画担当・山田良明氏が感銘を受け、すぐにドラマ化実現に働きかけた。演出には杉田成道を起用し、一昨年惜しまれつつ終了した「北の国から」の制作者2人が再びタッグを組んだ。
主人公・陳昌鉉役には「チョナン・カン」として韓国でも名が知られ、俳優としても非常に高い評価を得ている草剛が起用された。この作品には韓国語のせりふもあるが、主役を演じた映画「ホテルビーナス」でも韓国語の流ちょうさは折り紙付き。
草氏はすでにバイオリンの練習に入っており、「すばらしい台本に出会い、またいい作品に出会えたことを心よりうれしく思っています。感動的な作品になると思いますので、楽しみにしていてください」と早くも意気込みは十分だ。18歳から現在までの陳さんを演じる。
群を抜いた演技力を誇る女優・菅野美穂やベテラン俳優・田中邦衛、若手俳優として個性的な演技が光るオダギリ・ジョーら強力な俳優陣が脇を固める。
演出の杉田氏は「草さんはこの企画にベストマッチ。叙情味あふれ、詩的で豊かな人間味あふれるものにしたい」と抱負を語った。
ドラマ「海峡を渡るバイオリン」は11月27日、全国を感動の嵐で包み込む。
(2004.8.15 民団新聞)