掲載日 : [2004-08-15] 照会数 : 5943
民団と総連触れ合いの軌跡(04.8.15)
[ 丁海龍副団長(右)と徐萬述副議長=当時 ]
[ 心を一つにした民団と総連の青年たち(01年5月、千葉卓球選手権) ]
積み上げた交流 和合の機熟す
韓国民団(民団)と朝鮮総連(総連)との和合・交流事業は1990年代初頭、千葉で開かれた世界卓球選手権を皮切りに、規模の大小や祖国の動向を受けた紆余曲折はあったとはいえ、毎年のように行われてきた。
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91年
千葉での世界卓球大会…初の単一チーム応援
祖国が分断されて以降、初めて編成された単一チーム「コリア」が世界卓球選手権千葉大会に出場することになった。民団中央本部では史上初めて総連中央本部との実務協議を開き、共同応援をすることで合意した。
1991年4月11日の歓迎会から5月7日の歓送会までの約1カ月間、卓球会場に繰り出した総勢7300人もの同胞は、連日熱狂的な応援を繰り広げた。南も北もなく、心を一つにした大声援の成果は、女子チームが強豪中国を破って優勝する快挙をもたらした。
単一チームが解散し、また祖国の南北に分かれる直前の東京のホテルの歓送会。選手らも応援をリードしてきた韓国青年会、朝鮮青年同盟の青年らも厚い抱擁を交わし、声をあげて泣いた。祭りの熱狂とその後にやって来た心の空洞を埋めるのは、統一しかないと誰もが思った瞬間だった。この模様は韓国KBSテレビの特集番組「小さな統一を成し遂げた」によって、韓国全土に放映されたが、分断の痛みが在日社会にもあることが本国にも伝わった。
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91年
同胞交流促進協が発足…親睦・慰霊や福祉活動
千葉での卓球選手権が成功裏に終わった後、民団では総連との和合と交流事業を推進するため、在日同胞交流促進協議会を発足させた。91年10月の第1回会議を契機に、各地方では様々な交流が始まった。
大阪では柔道交流試合、静岡・清水支部では敬老会、高知や千葉ではゴルフ、その他、埼玉・県北や福井・敦賀では支部単位の新年会など、親睦を中心とした企画が相次いだ。
また、強制連行された同胞の慰霊事業に着手した兵庫と北海道や国の年金制度から除外された高齢同胞のために、福祉手当獲得に動いた静岡の例もある。
この他、2世の交流も青年会と青年同盟との間で始まった。91年の世界卓球選手権は単なるスポーツ大会のワクを越え、在日同胞に統一への期待を大きく膨らませる画期的な出来事になった。
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96年
ワンコリア福岡花見祭…歌に踊りに千人参加
民団と総連の親睦行事で、参加者が1000人の大台を超えたのが、96年4月の福岡の合同花見だ。桜が満開の山王公園で開かれた「ワンコリア福岡花見祭」には民団の福岡支部、総連の東福岡支部の同胞が初めて同席した。
きっかけは前年のユニバシアード大会だった。北韓の選手は参加しなかったが、総連は自主的に韓国選手団を応援したことから、一気に厚い壁が壊れていった。
福岡と言えば地理的に韓半島に近く、炭鉱に強制連行され苦労した同胞らにとっては恨(ハン)がこもる土地でもある。
しかし、この日ばかりは50年以上も続いたハンを晴らすかのように、肩でチャンゴのリズムに合わせ歌に踊りに興じる一方、七輪で焼かれたホルモン焼きの香ばしい匂いが公園内に立ちこめ、「花より団子」を地でいくコリアンデーになった。
今年4月、両支部は8年ぶり2回目の花見を開催した。
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00年
南北首脳会談を受けて…地方単位の交流209件
2000年6月13日、金大中大統領が平壌を訪れ、北韓の金正日国防委員長との握手で始まった歴史的な南北首脳会談は、世界の耳目を韓半島に集めた。
南北共同宣言が発表された6月15日、民団中央本部は記者会見を開き、総連中央本部に対して「何らの条件もつけず虚心坦懐に会おう」と提議した。この提議に対して、8月に総連の副議長らが民団を訪問し、両団体間での対話と交流について意見交換が始まった。
総連の韓国訪問団が民団の頭越しに韓国当局との間で決まったことから、中央本部単位での対話は結果的に持続しなかったが、地方単位での交流はこの年合計で209件行われた。各地の市民祭りやパレードにともに参加にすることで、日本の地域社会にも南北の雪解けを大いに印象づけたと言える。
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01〜02年
大阪の先駆的動き…南北の相互訪問実現
01年3月に大阪ドームに3万人を集めた大阪在住の同胞と日本人との共生の祝祭「大阪ハナ・マトゥリ」以降、民団と総連は急速に交流を深めていった。02年3月、両団体は南北の相互訪問に合意し、まず民団の代表団が平壌で開催中の「アリラン祭」を参観した。その答礼として総連の代表団で構成された訪韓団は、ワールドカップ観戦のため、6月2日にソウル入りし、4日の対ポーランド戦で勝利の感激をともにした。
総連大阪府本部の呉秀珍委員長(当時)は、「60年ぶりの(南の)祖国だが、まったく違和感がない。訪韓のために金昌植団長らの努力と温かい受け入れがうれしい。今後も和合と交流のためにともに努力をしなければならない」と語っていた。
大阪府本部は北韓の龍川駅で起きた爆発事故の被災支援にと義援金500万円を支援した。
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02年
韓日共催W杯サッカー
合同参観団繰り出す…韓国初勝利を共に祝福
02年の韓日共催のサッカーワールドカップを機に、在日同胞社会の和解と団結のため、互いの信頼構築の契機となるようにしたいと、民団中央本部では同年5月以降、4回にわたって総連中央本部と協議を重ねてきた。「祖国で開かれる史上初の大会をともに参観しよう」との民団の呼びかけに、総連が応じたことで「2002ワールドカップ在日同胞参観団」が実現した。両組織が一つの団体を構成して訪韓し、行動をともにするのも史上初めてのことであった。
韓国チームの初試合となる6月4日の対ポーランド戦(釜山)には、「同胞参観団」の500余人が競技場の一角に陣取った。総連同胞は80人で、ほとんどが初めての訪韓だった。
「同胞参観団」は12番目のプレーヤーと言われるサポーターとなり、声もかれよとばかりに選手らを必死に後押しした。そして、66年に北韓が準々決勝に進出してアジアチーム初のベスト8入りを果たしたことはあったが、韓国チームとしては48年目にしてワールドカップ初勝利の喜びにともに浸ったのであった。
「悲願の1勝。その歴史的な瞬間に立ち会うことができてよかった」と総連同胞が素直な気持ちを吐露した。「ゆっくりまた韓国に来たい」とも言った。
「同胞参観団」などに参加した総連同胞は、韓国チームが出場する3試合を中心に合計約1000人が観戦した。
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04年〜
一段と飛躍めざす…主体的に〞うねり〟を
民団と総連は冷戦構造と分断祖国というあつれきのなか、代理戦争という辛い役割を演じてきたのも事実だ。下関騒擾事件など、数々の衝突もあった。
しかし、かつてのパチンコ疑惑や昨今の拉致報道に起因した朝鮮学校生徒らへの暴力事件などに対して、胸を痛めない民団同胞はいない。北バッシングの影響もあってか、民団と総連の交流は02年が59回とピークの00年と比較すると30%程度に落ち込んだが、03年度は83回と息を吹き返している。
「雨降って地固まる」という言葉があるように、もはや同胞間の交流・和合の大きな流れを誰も止めることはできないはずである。また、自ら壁をつくる必要もない。在日同胞は自らの主体性で、在日同胞社会の舵取りをする時期に来ている。
各地の和合と交流はそういう同胞の思いが凝縮されているのである。
(2004.8.15 民団新聞)