掲載日 : [2004-09-08] 照会数 : 4938
新聞報道でよみがえる関東大震災の悪夢(04.9.8)
[ パネル化された当時の新聞報道と写真に見入る人たち ]
高麗博物館「企画展示」
官憲のデマに追随
朝鮮人蔑視あおる
関東大震災の混乱のさなか6600人以上とされる朝鮮人が虐殺されてから今年で81周年を迎えた。民団は各地で祭祀を執り行うなど、あらためて犠牲者を悼んだ。市民レベルでは当時の新聞報道を洗い直し、虐殺の背景に根強い朝鮮人蔑視があったことを浮き彫りにする企画も話題になった。
関東大震災の勃発直後、官憲によって故意に流された「朝鮮人暴動」のデマが、いびつな形で増幅しながら東北、北海道にまで伝わっていたことを明らかにした企画展「朝鮮人虐殺と新聞報道」が、東京・新宿のミニ歴史資料館、高麗博物館(宋富子館長)で開かれている。
パネル展示されているのは当時の関東、東北、函館をシェアとしていた代表的な地方紙‐「東京日日新聞」「北陸タイムス」「河北新報」「下野新聞」などから16点。
23年9月3日付の「函館日日新聞」には「不逞鮮人等が変装して入京す」という見出しが付けられた。同5日付を見ると、「野獣の如き鮮人暴動」「魔手帝都から地方へ‐強盗、強姦、略奪、殺人が彼等の目的」と根拠なく、いたずらに民衆の不安をあおっていることがわかる。
なかでも「強姦」デマが「当時の日本人の民族的な感情をいたずらに刺激し、排他的な感情を駆り立てたであろう」(パネル展での解説から)ことは疑いようもない。
朝鮮人暴動のデマは震災の起こった1日夕方から官憲が意図的に流したことが、これまでの研究で明らかになっている。2日には埼玉県内務部長官が郡役所経由で町村に文書で通知、3日には船橋海軍無線電信送信所を通じて全国に送信したことで決定的なものになった。
震災の勃発した1923年5月1日のメーデー当日、治安当局は朝鮮人と日本人労働者の連帯を恐れ、私服警官も含めて5000人で「水ももらさぬ」厳戒態勢(「読売新聞」)をしいている。
三・一独立運動の際、朝鮮人の激しい抵抗にあったことはまだ日本人の記憶に生々しく焼き付いていたときのこと。朝鮮人による反日行動への怯えと蔑視感が、官憲による誤認情報流し、そしてゆがんだ新聞報道につながったと見る説が有力だ。
今回の企画展は姜徳相滋賀県立大学名誉教授と山田昭次立教大学名誉教授の協力で実現した。
10月3日まで。月、火曜日休館。開館時間は正午から午後5時。問い合わせは(℡03・5272・3510)。
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東大でシンポ ジェノサイドの立場で
関東大震災当時の朝鮮人・中国人虐殺をジェノサイド研究の立場から再考する公開シンポジウムが5日、東京大学駒場キャンパスで行われた。
シンポは「史上まれな大虐殺」がどうして起きたのか、世界史上での位置づけ、特徴について明らかにするのが目的。基調報告で立教大学名誉教授の山田昭次さんが、歴史学、歴史研究の立場からアプローチした。
山田名誉教授は「朝鮮人虐殺を読み解くうえでのキーワードは不逞鮮人という呼称にある。朝鮮人に対する蔑視意識と恐怖感が黒い幻影となり、爆発した」と見解を語った。
さらに朝鮮人が暴動を起こしたという誤認情報を流し、さらに今日までその責任を隠蔽してきた日本国家には「二重の責任」があると指摘した。同時に「国家の隠蔽政策に追随し、不逞鮮人のイメージを振りまいた新聞の責任も大きい」と述べた。今後の課題としては「国家に資料を公開させられるか、日本の民衆責任が問われている」とも述べた。
(2004.9.8 民団新聞)