掲載日 : [2004-11-04] 照会数 : 5511
在日百年 〈物〉が語る歴史③(04.11.3)
五十数年前のカメと臼
ドブロクとモチを糧に
40年前、私が結婚したときにはチャンイン(義父)はすでにこの世にいなかった。
大阪で暮らしていた妻の家族は解放後、生活の場を求めて新潟県西頚城郡青海町に引っ越した。義父は山に入り、炭を焼き生計を立てていた。炭焼き小屋が雪でつぶれ長男を失った。しばらくして病気で次男も失った。チャンインはこの悲しみから山を下りたという。日本人から土地を借り農作業を始めたが、息子たちを立て続けに失ってからは身も心も弱りきり、脳溢血で倒れ、寝たきりになってしまった。
家族の生活はチャンモ(義母)の肩にのし掛かった。当時朝鮮人の多くが生きる糧としてドブロク作りをしたように、チャンモも新潟の片田舎でドブロクを作り始めた。近くに青海電化という大きな化学肥料工場があったので、そこの労働者を当てにしたのだ。しかし思うようにはならなかった。苦労して作ったドブロクは何度も警察の手入れにあう羽目になったという。
そのうちチャンモはドブロク作りの不安定な生活に見切りをつけ、綿打ちの機械を買い、朝早くから夜遅くまで働いた。それだけでは生活が苦しく、もち米が手に入ったときはもちをついては近所の人に売り、生活の足しにしていた。
86年10月6日、新潟で独り暮らしをしていたチャンモは近所の人に看取られながら他界した。当時、総連支部で活動家をしていた私はチャンモに深い思いを寄せることすら出来なかった。そういう自分に後悔しながら葬儀を済ませた。
チャンモの家にはドブロクを作っていたときの大きなカメ二つと、それより少し小さいカメが一つ、それにケヤキで作られた臼と杵が残された。それらの品々は日本での貧しい生活を物語っていた。大きなカメは割れてしまったが、小さなカメと臼は残っていた。妻と相談して「歴史資料館」に役立てることにした。50数年前、苦労を重ねた在日同胞の生活の断片が伝わればとの思いからだ。
在日コリアン歴史資料館調査委員・李達完=在日同胞親睦会副会長
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(2004.11.3 民団新聞)