掲載日 : [2004-11-17] 照会数 : 7708
「東医宝鑑」英訳されていた 朝鮮医学の名著(04.11.17)
[ 1613年刊行の木版初版 ]
[ 米国人のレンディース氏翻訳の一部 ]
100年前、外国誌に掲載
米国人医師…先進医学を高く評価
朝鮮朝医学の最高峰といわれる「東医宝鑑」。1610年に、名医・許浚によって編纂された医学書である。日本では江戸時代の1724年に、中国でも1763年に初刊行され、両国に多大な影響を与えた。このほど、これまで実現されなかったとされる英訳の存在が確認され話題になっている。
「薬科の部」を紹介
「東医宝鑑」の一部蕩液(薬科)篇の虫部が1800年代末、外国雑誌に紹介されていたことが、韓国・延世大学医大の呂寅碵教授の発見でわかった。
英訳を掲載したのは、1898年に香港で発刊された「ザ・チャイナレビュー」誌。同誌は1872年の創刊以来、現在も発刊されている。
取材対象国は中国、香港、韓国などの東アジアで、政治、経済、社会のほか、質の高い研究論文、書評、歴史的な観点を含めた広範な記事を扱っている。
すでに不朽の名著として高い評価を得ていた「東医宝鑑」の英訳が紹介されても、何ら不思議ではない。注目すべき点は朝鮮や日本、中国人ではなく、米国人によって翻訳されたことだろう。
訪韓宣教師の労作
訳者は1890年に訪韓した英聖公会所属の米国人医師で宣教師のレンディース氏(E.B.Landis)。
今年8月、延世大学・図書館の貴重本書庫で偶然、同誌を発見した呂教授によると、当時、宣教師らの近況を伝える消息誌の記録で、レンディース氏は宣教活動を続けながら韓国語と漢字を学び、眠っている貴重な資料を掘り出し、世界中に広めようとしていたという。
その語学力を生かし、余すことなく力を注いだのが、先に述べた英訳作業である。掲載誌(vol.22)では、11頁にわたって各薬名の説明が列挙されている。特に印象的なのが、後記で書き記されているコメントだ。
「『東医宝鑑』が在来の研究で、中国で評判になった韓国原作者のただ一つである」と、大事業を成し遂げた許浚を称えている。
呂教授は、「韓国でも『東医宝鑑』の韓国語訳で満足のいくものがない。一部ではあるが忠実に英訳したことは驚くべき事実」だと話す。
レンディース氏の功績は、韓中日の3国を飛び越えて、「東医宝鑑」の優秀性を海外へしらしめるきっかけを作ったところにある。
原著は25冊の全書
「東医宝鑑」完成から今日に至るまで、国内外で高い評価を得ているのはなぜか。
25巻25冊からなる「東医宝鑑」は、当時の医学のあらゆる知識を網羅した臨床医学の百科全書で、内景(内科)、外形(外科)、雑病(雑科:流行病、かく乱、婦人病、小児病雑科)、蕩液(薬科)、鍼灸の5篇で構成されている。
各篇ごとに病気によって項目を決め、該当する病論と薬法などを出典とともに詳しく列挙している。
編纂は、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の最中、一時中断を余儀なくされながらも続けられた。許浚の編集・著述能力も高く評価されている。
朝鮮医学の全盛期
「東医宝鑑」が誕生した朝鮮朝時代の医学水準はどのようなものだったのだろうか。
朝鮮朝前期の医学は、高麗時代に輸入した宋医学などを継承し、固有医学が興隆した、まさに全盛期だったとされる。
1398年、「郷薬済生集成方」30巻、1433年「郷薬集成方」85巻などを完成させたほか、編集、編纂、刊行された医書は90余種、中国医書の刊行も100余種にのぼる。朝鮮中期に14余年を費やした「東医宝鑑」が編集、発刊されたことによって、朝鮮医学が独自の地位を確立した。
一方、明国とは朝鮮朝初期から医員の往来、医書の輸入、薬材の貿易などが活発に行われ、日本との交流も多かった。
徳川吉宗も座右に
日本は朝鮮朝時代から活発な交流を重ね、1662年には江戸幕府が朝鮮に使節団を派遣したときに「東医宝鑑」を求め、その後、たびたび刊行してきた。
同書を生涯の座右の書の一つとした江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗は、「蕩液篇」に最も関心を寄せ、朝鮮の風土に生息する鳥獣草木薬種の類に関し、日本にあれば用い、なければ移植するという動きをみせた。
これは、本場中国の本草学を理解するために、唐薬の名称を日本名に置き換える際、東アジア文化圏の朝鮮医学書から探すと同時に、朝鮮の貴重な動植物を持ち込むためであったとされる。
「東医宝鑑」は、漢方の「元祖」である中国に逆輸出され、これまで25回にわたり、30余種の異なった版本が発行された。
かつてこのような優れた医書はなく、「韓医学」の名著として高い評価はすでに不動であった。江戸時代、「東医宝鑑」の日本に与えた影響ははかりしれないにもかかわらず、日本医学にもたらした影響についての記録がほとんど見られない。
昨年4月に刊行され、波乱の生涯を描いた小説「許浚」(上下2巻・結書房)の訳者、朴菖熙氏も首をかしげる一人だ。 仮説として二つの理由をあげる。
一つは、韓国は漢方医療と食が密接につながり生活のすみずみまで浸透しているのに対し、日本は韓国ほど漢方が直結してないために、国全体として受け入れる素地がなかった。
二つめは、江戸幕府の各藩が「東医宝鑑」や韓国の医療書を持ち込んでも、手元に置くだけのいわゆる「宝の持ち腐れ」状態になり、体系だてて全国へ普及させなかったのではないか。
また、「当時、『東医宝鑑』が最高レベルで編集されても、日本では庶民が利用するという認識から、学術書ではなく、実用書ととらえられているために評価されないのでは」といった意見もある。
今後、日本の医学発展に大きなきっかけを作った許浚の偉業をどうとらえるかについてもっと議論、検証される必要がありそうだ。
(2004.11.17 民団新聞)