掲載日 : [2004-12-01] 照会数 : 6317
在日百年 〈物〉が語る歴史⑥(04.12.1)
60年前の手紙と香典帳…哀切、在樺太朝鮮人の離散
大戦の末期、44年8月11日の閣議決定「樺太及釧路ニ於ケル炭鉱勤労者、資材等ノ急速転換ニ関スル件」に基づき、日本政府は当時、日本の領土だった南樺太のソ連国境に近い14の炭鉱を放棄。これにより生じた余剰労働力、日本人6000人、朝鮮人3000人が本土の各炭鉱に向け8月下旬から9月にかけて緊急輸送された。敗戦後、徴用解除された日本人、朝鮮人鉱夫は大半が故郷に戻ったが、家族を南樺太の炭住に残した日本人、朝鮮人鉱夫は途方にくれた。南樺太はすでにソ連軍に占領され、ヤミ船を雇って宗谷海峡を横断するのはあまりに危険だったからだ。
その後、「ソ連地区引揚協定」により南樺太の日本人は46年11月から帰還できたが、朝鮮人はその対象外とされ、家族離散の状態が長く続いた。
この手紙の持ち主は朴鍾宣さん、72歳。現在、ロシア・サハリン州ユジノサハリンスク市在住で、サハリン州韓人二重徴用鉱夫遺家族会(127家族、会員288人)の会員である。鍾宣さんの父、チンイ(松井季太郎)さんは04年生まれ。南樺太の名好(なよし)炭鉱に強制連行され働いていたが、44年9月に九州筑豊の古河目尾(さかなお)炭鉱に再連行された。九州で働く父と南樺太に残された家族9人との間で交わされた往復書簡は全部で5通が現存している。たどたどしい日本語で懸命に書き綴っている父の息子宛の手紙には、胸を打つものがある。
香典帳の持ち主は呉世さん、75歳。サハリン州シャフチョルスク町在住で遺家族会会員。父、庚述さんは南樺太の白鳥沢(はくちょうさわ)炭鉱に強制連行されていたが、44年9月に筑豊の明治平山炭鉱に再連行され稼働中、同年12月22日に落盤事故で死亡した。炭鉱長屋に家族7人が遺された。翌45年2月22日に白鳥沢炭鉱職員倶楽部で執り行なわれた葬儀の写真、多額の未払い残高のある会社の積立金通帳などと一緒に、この香典帳は残された。
長澤秀・在日コリアン歴史資料館調査委員=在日朝鮮人運動史研究会員
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(2004.12.1 民団新聞)