掲載日 : [2005-02-02] 照会数 : 9674
<国籍条項訴訟>「壁崩さねば」悩んだ末の提訴(05.2.2)
[ 判決の感想を語る鄭さん
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鄭香均さん 苦闘10年を振り返る
判決が言い渡された瞬間、鄭香均さんは法廷で体を石のように硬直させたまま、しばらく席を立とうともしなかった。都側の代理人らが裁判官席に深々と頭を垂れていたのとは対照的な光景だった。
最高裁第3小法廷が弁論期日を指定してきたとき、鄭さんは「さんざん待たせたあげく、外国人排斥や憲法改悪の動きが重なるこの反動の時期を選んだのか」と一抹の不安を語っていたものだった。心の中では「やはりそうだったのか」という思いが交差していたのかもしれない。
岩手県生まれ。成績優秀で進学を志した。しかし、実家が貧しかったため高校3年の冬、急きょ就職活動を始めた。民間の企業からは軒並み断られ、「白衣の天使なら国籍は関係ないはず」と看護士の道を志す。川崎市内で同胞の経営する個人病院に勤務しながら88年に保健師資格をとった。
都で初の外国人保健師として採用されてから5年後の93年に主任に。上司の勧めで管理職試験の受験を決意し、94年に申し込み書を提出したところ「あなたは受けられない」との返事。だが、要項には国籍要件は明記されていなかった。「壁の前でたじろげば、後進の道がふさがれる」。悩んだ末に提訴に及んだ。
提訴から今日までの10年間、職場ではいたたまれない思いを何回もしてきた。「私が訴訟に踏み切ったことで職場長は上司からいじめられ、ノイローゼ状態になってしまいました」。鄭さんの立場を理解し、擁護しようとする同僚が全体の半分を下回っていたことが分かったときは、「悔しくて悔しくて帰宅後、机の周りのものを足蹴にして机に向かいました」と涙声で語ったこともある。
司法判断は最終的に鄭さんの主張を認めなかったが、10年間にわたる闘いは無駄ではなかったというべきだろう。なぜなら、鄭さんが切り開いてきた地平の上で第2、第3の訴訟を起こそうという動きも芽生えているからだ。
(2005.2.2 民団新聞)