掲載日 : [2005-02-16] 照会数 : 8373
「在日」どう描いたのか 映画監督ら講演 MINDAN FESTIVAL
[ 行定監督(左)によるトークショー ]
[ 行定監督 ]
自らの問題意識鮮明に
民団フェスティバルの目玉、「日本映画に描かれた在日Ⅲ」では、映画監督と評論家が作品について語った。
葛藤や情念描く 「京阪神殺しの軍団」(佐藤千広・映画評論家)
在日が映画の中でフレームアップされてきたのは、日韓条約締結以降、60年代の後半からだ。戦後の闇市を舞台に「第三国人」として登場、日本社会の中での葛藤や在日の情念が描かれていた。70年代の半ばになると、在日2世が表現主体になってきた。在日であることをカミングアウトすれば、重みがあると思う。
植民者の醜悪さ 「はじけ鳳仙花 わが筑豊、わが朝鮮」(土本典昭監督)
80年代半ばの「教科書問題」を契機に、日本の戦争責任をどう考えるかという視点から映画が企画された。満州で育った社会派の画家、富山妙子は植民者日本がいかにひどいことをしたのか、また、日本に強制連行され炭鉱で酷使されたあげくに死んだ朝鮮労働者の姿をリトグラフで描いた。
今日なお日本では歴史を歪める動きが続いているが、コミュニケーションを図りながら理解に努めるしかない。
在日表現し得た 「伽倻子のために」(小栗康平監督)
映画を通して物事を考える原点になった作品だ。物語のすばらしさを映像の持つ力で表現したかった。20年前の製作だが、時代設定は40年前にさかのぼる。差別の実態が描かれていないという批判も当時あったが、自分としては在日のことを表現できたと思っている。今日、在日を取り巻く状況は大きく変わり、『血と骨』や『パッチギ』など在日を扱った日本映画が商業館で上映されるまでになった。
闘う姿に向合う 「指紋押捺拒否」(呉徳洙監督)
在日2、3世が差別との闘いに挑む姿を見て、きちんと向き合わなくてはならないと思った。外国人登録の切り替えが遅れたために、警察署に出頭せざるをえなかった。冒頭に自分の外登証を燃やすシーンを入れたのは、その時の怒りからだ。
今では指紋押捺制度は廃止されたが、住基ネットや国民総背番号制など、コンピュータで管理されている。国家による管理制度でますます息苦しくなっている現状を、日本人も在日も互いに考えるべきだ。
戦後50年を意識 「三たびの海峡」(神山征二郎監督)
敗戦の時、4歳だった。中国残留孤児と同世代だ。小さな頃から戦争がいつも心に引っかかっていた。戦後50年の節目の年には、企画が続出していた。「パールハーバー」の企画がつぶれたために、この映画の監督依頼がまわってきた。
ラストシーンは日本国相手に戦後50年目のおとしまえをつけるという設定になっているが、今の日本人は戦後処理の問題などおとしまえのつけ方をほとんど忘れてしまった。
仏有名女優も絶賛 「GO」(行定勲監督)
小学生の時、在日の友人がいた。まわりから差別されていた。彼は加藤清正の朝鮮出兵を祝う祭りの時、清正に扮した市長めがけて石を投げ、補導された。3カ月後に湖で死んだ。一緒に鴨を撃ちに行く約束を果たせなかった友への弔いの気持ちを映画に込めた。父と息子、母と息子の絆を描きたかった。国内向けの映画だったが、海外でも数々の賞を受賞した。フランスの女優、ジャンヌ・モローは「家族の絆を暴力で表現した美しい映画」と絶賛してくれた。
(2005.2.16 民団新聞)