掲載日 : [2005-04-27] 照会数 : 7451
【訃報】姜永祐氏(民団中央本部前議長)(05.04.27)
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民族教育に半生…姜永祐氏を悼む
姜永祐民団中央本部前議長が13日午後11時20分、悪性リンパ腫のため京都・蘇生会総合病院で死去した。75歳。葬儀は16日、近親者だけの密葬で行われた。姜氏は京都韓国学園(現在は京都国際学園)校長を定年退職後、京都民族文化教育研究所(KIECE)を創立し多民族多文化共生教育の普及に努力した。民団では中央民族教育委員、中央規約委員、中央本部議長を歴任した。近く「お別れ会」(仮称)が予定されている。
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姜氏が社会科(歴史・公民)の教師として京都韓国中学校に赴任したのは若干24歳のとき。校監(教頭)を経て校長として定年退職を迎えるまでの40年間、民族教育に半生を捧げた。教員時代を知る許眠九さんは「教育に燃え、はつらつとしていた」と振り返る。
教頭当時、バレーボール部の合宿ではクラブの顧問として朝6時から部員をしごいた。「人の3倍も4倍も練習しないと勝てない」というのが当時の口癖だった。練習は厳しかった反面、市の中学校大会では常に上位を占めた。各種学校ながら中学校体育連盟に加入できるよう行政とかけあい数年間かけて参加へ道を開いたのも姜氏だった。
練習を終えると、生徒と一緒にカンテキを囲んで、父兄の持ち込んだ差し入れのホルモンを楽しんだことも。李民さんは「練習を終えたら先生と生徒の関係でなく、父親以上の存在だった。いまでも鮮明に覚えている」と懐かしむ。
京都韓学の生徒はすべてが実の子どものような存在だった。新学期を迎えると金宝熙夫人に「純真な子どもたちの目がキラキラしていて、かわいくてかわいくて」とよく話していた。卒業式が近づくと、目に見えて寂しそうな表情に変わっていったとも。
「韓国語を習うなら韓国留学のほうが近道」といった否定的な声が聞こえてきたときは「在日は日本社会で生きている。経済的に豊かな子どもばかりではない」と民族学校の必要性を説いた。授業に「在日同胞史」を新設、校長でありながら自ら教壇にも立った。
北白川から現在の本多山に新校舎を移転するときは住民の反対運動に遭い、反対派宅を一軒ずつ回って説得。一方で「民族教育を守る会」を組織し、「景観が損なわれる」と移転に消極的な行政とも交渉を重ねた。
当時、市教委指導主幹だった籔本薫さんは「守る会」との話し合いを通じて民族教育への理解を深め、81年に「市外国人教育基本方針(試案)」を策定。教育長就任後は姜氏と緊密に連携、退任の年に試案を「方針」に格上げした。
(2005.04.27 民団新聞)