掲載日 : [2005-04-27] 照会数 : 7409
<2500号特集>主要キャンペーンの歩み…1(05.04.27)
[ 東京五輪の後援成功と韓国選手の応援をハングルで呼びかける1964年当時の「後援会」ポスター
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[ ソウル五輪の開・閉会式予行演習に参加した在日青年たち=88年9月14日
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機関紙「民団新聞」は本日4月27日付で通算2500号を数える。1947年2月21日の創刊から今日まで一貫して民団の方針を伝えてきた。節目に当たって機関紙上での主要キャンペーンを振り返ってみたい。
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戦災同胞の救済運動…心こもる品々どっと
9号には中央総本部社会部厚生課からの「戦災同胞諸氏に告ぐ」という告知がある。
戦災同胞の救護救済事業を計画中につき、本部・支部・分団を通じて登録を、という内容である。また、民団に入団していない同胞でも登録すれば救済を受けられるという組織拡充の観点と被災者への情愛を同時に示している。日誌を見れば、戦災同胞の名簿作業準備を進めていることが読み取れる。
同じ戦災同胞でも50年代に入ると、対象が韓国戦争で犠牲になった本国同胞に変わった。戦争勃発3年後の53年6月25日付では、本国政府に連動して北進統一を叫び、「分断休戦は民族の破滅」と声明を出す一方、1200万余の戦災同胞の窮状を訴え、国連友邦諸国家からの援助物資の数々を具体的にあげて同胞の参与を促した。
その波及効果はすぐさま表われ、鳥取県本部が大人と子どもの衣服、子どもたちの学用品などを中央本部に伝達したことを同年7月3日付で紹介している。
その後、63年1月18日付では、釜山にある戦災児童の施設に野球道具を贈ろうという韓青神奈川本部の寄贈運動呼びかけも紹介している。同じ号では、三多摩本部(現西東京)がハンセン氏病患者を慰問し、支援金を手渡したという記事も見られる。
弱者の視点に立った生活支援が、当時の新聞からも把握できる。
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民族金融機関の育成…バブル崩壊後は試練
51年に民団と旧朝連がそれぞれ信用組合設立運動を起こし、調整の結果、双方のメンバーによって52年に同和信用組合が発足した。しかし、53年に旧朝連側の暴力により分裂したため、民団陣営は東亜信用組合を新たに発足させたと、同年9月17日付で事の顛末を詳細に報道した。
その後、53年8月の大阪商銀を皮切りに民族金融機関が全国に続々と設立された。民族金融機関に寄せる同胞の期待は大きく、58年1月1日付で「在日民族の経済をまもる信用組合現況」などの特集を組んで同胞社会に活力を与えた。
88年1月30日付けでは、大阪興銀が預金高で全国443信組の頂点に立ったことを報じたが、バブル崩壊後の長期不況のあおりは簡単には解消されず、90年代には破綻が相次いだ。
この窮状を打開しようと、近畿地区の5つの信用組合が合併し、関西興銀としてスタートを切ったと、93年7月6日付で報じた。
01年になると在日の銀行設立構想が現実味を帯び、10月開業の記事が8月1日付で掲載された。にもかかわらず、二転三転するうちに霧散するという結末を迎えた。
長い苦境は続いたが、今年に入り、政府が156億円を支援したことを05年4月6日付で内外に明らかにした。民団、韓信協、韓商連の三位一体の粘り強い努力が、同胞社会に久々の朗報をもたらすことになった。
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「北送」と省墓団事業…明暗分けた総連同胞
「北送」で多くの総連同胞は地獄を味わい、省墓団で懐かしい祖国の山河に抱かれた。総連と民団の事業には、天と地ほどの差がある。北での苦難も南での歓喜もどちらも現在進行形だ。
59年8月に日本赤十字と北韓との間で締結された「在日朝鮮人の帰還に関する協定」に端を発した「北送事業」に対して、民団は「北韓の労働力不足を補う策動」と反対、断食闘争や輸送列車を実力で阻止しようとするなど、強力な運動を全組織をあげて展開した。
結果的に「北送」は強行されたが、紙面では間一髪乗船から逃れた同胞の生の声や脱北同胞の内幕暴露、日赤へのインタビューなどを掲載し、在日同胞がこれ以上不幸な目にあわないように徹底的に批判の論陣を張った。
「北送」同胞のうち、脱北して日本に戻ってきた同胞の生活を支援するため03年に脱北者支援民団センターを設立し、内外から注目と称賛を浴びている。
一方、総連同胞を対象にした墓参団事業は75年9月12日、第1回目が始まった。72年の7・4共同声明に則った民団と韓国政府の共同事業で、約40年ぶりの祖国で秋夕の墓参りを行い、肉親との再会を実現させることになった。
各地で総連のデマや妨害活動が執拗に繰り返されたが、情愛を象徴する抱擁写真と肉声を前面に押し出す紙面づくりで人道事業を着実に定着させていった。
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64東京オリンピック…後援会の奮闘に評価
64年7月30日付の題字下には「東京オリンピック後援事業を成功させよう」というスローガンが掲載された。3面には東京地区役員への委嘱状授与、4面には韓国選手団の来日と強化訓練日程表なども詳しく掲載されている。
五輪開催までの約2カ月間、「在日韓国人後援会」を軸に、韓国選手団の受け入れと本国からの参観者招請、競技応援や募金など、五輪一色と言っても過言ではない報道に努めた。
その理由は、民団組織の団結した力量を誇示するためであり、五輪を政治利用しようとする北韓と総連の妨害策動に強い警戒心を促すためであった。また、アジア初の五輪成功にかける意欲を内外に示すことで成功にも寄与しようとしたことがわかる。
「後援会」の奮闘ぶりは高い評価を受け、その後の後援事業のモデルとなった。70年の大阪万博、88年のソウル五輪などに受け継がれていった。
一方、北韓と総連は自ら非道ぶりを満天下にさらした。「後援会」では北韓選手団の陸上短距離ランナー辛金丹とソウル在住の父親を会わせようと奔走し、親子は会えることになった。
しかし、北韓選手団が突如五輪をボイコットしたために、総連中央本部会館での14年ぶりの離散家族の劇的対面もわずか5分で引き裂かれてしまった。報道を通じて、同胞らの胸に悲痛な思いが残った。
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人・技術・モノ支援展開…食糧からラジオまで
常に本国と一体感を持ち続けている1世は、人・技術・モノなどを通じて支援を続けてきた。本紙では様々な例を紹介した。
ピアノ製造会社を経営する浜松在住の同胞が、経済再生策の一環として日本の優秀な技術を本国の会社に伝授することになった。本紙62年10月19日付には、技師10人の壮行会の席上、当時の浜松市長が「楽器の都の職人という名に恥じないように」というはなむけの言葉を送ったと掲載している。国交正常化前にすでに始まった民間レベルの技術提携、その第一報とも言うべきものだ。緊張感が行間からも伝わってくる。
次に、農漁村にラジオを贈る国民運動に組織的に呼応し、同年11月28日の公告で積極的な参与を呼びかけた。63年1月以降には京都本部や川崎支部、神奈川県本部などが応じたことが報道されている。
寄贈したなかには同胞の有名レスラー力道山もいることが、読者の目を引いたことは想像にかたくない。農漁村に文庫をつくるための募金運動では、64年12月18日付で募金だけでなく、再びラジオを贈るキャンペーンを張った。
63年7月に始まった食糧難救援運動では、7月24日付3面トップで団員一人当たり米一升、幹部はその数倍の拠出という具体的なノルマを課し、現物は横浜・神戸・門司に集荷するという徹底を呼びかけた。
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在留資格獲得への歩み…韓国籍の獲得へ着手
48年8月15日の大韓民国政府樹立により、一大転機が同胞社会に訪れた。それまでの外国人登録上の「朝鮮」を維持するのか、韓国籍に変更するのかという選択を迫られたのである。
民団ではそれ以前の7月21日に「国民登録事業を準備するよう」全国の本部に示達するとともに、中央本部に「国民登録委員会」を設置して万全の準備を整えていた。そして、50年2月11日に公布された韓国の「在外国民登録令」を期に、在日同胞に対する本格的な韓国籍獲得運動に着手することになるのである。
この間の動きを記した本紙は手元にはないが、前述の同胞世論調査で明らかになった北韓型の共産主義・社会主義に対する拒絶反応からすると、「朝鮮籍」の維持は考えにくい。
と同時に第9号に掲載された朴烈団長の主張が韓国籍獲得問題で示唆に富んでいる。
朴団長は「共産主義思想には反対しないが、それを基盤にして朝鮮建国運動を推進することには反対である」と前段で述べ、「38度線を越え得る一方式として南の新政府の出現に期待を寄せる」と結んでいるのである。
初代から連続5代目まで団長を務めた強力なリーダーシップのもと、すでに韓国籍選択の方向性を示していたと見て取れる。
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生活安定求める同胞…協同組合を作り結集
47年2月21日の創刊号から始まった「常識講座」は、第2号で「協同組合の理念と実践」を掲載している。2カ月後の4月15日には、60万同胞の生活を安定させるため協同組合を設立、4月20日付の第5号に第一報を報じた。
同月25日付の6号には趣意書の全文と広告が掲載され、多くの同胞に加入を呼びかけている。「在日本朝鮮居留民団宣言書」にある民団の第一目的、「在留同胞の民生安定を期す」と民団新聞創刊辞の「民生問題、文化向上、国際親善の質をあげるべくまい進していく」を即刻実践した。
また、創刊号で同胞対象の世論調査開始を告知し、6号で質問内容、6月30日付の9号に結果を公表している。主な内容を列記すると、民団に望む性格規定では、共和政体が69%で社会主義・共産主義を合わせた31%を大きく引き離した。
日本との関係では親善が85%で、報復が13%、本国の進む方向では自主独立が90%で信託統治が10%だった。なぜ帰国しなかったのかという回答では、財産搬出不可能が36%、その次が生活不安の33%、在日の民生問題解決策のトップは職業を持つが60%で、事業や貿易をするという回答の合計が25%だった。同胞の圧倒的多数が生活の問題に苦慮していることを受け、民団の方向性が固まっていく。
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外国人登録法との闘い…指紋押捺拒否へ決起
外国人登録令について、9号で「排他的に生活権を阻止するものである。悪名高い協和会手帳と何ら変わらない」と批判した。
登録令は52年に外国人登録法に「昇格」し、指紋押捺制度が導入されるなどいっそう管理色を強めた。同胞の反発が強かったため、実質的に指紋が採取され始めたのは、55年になってからだ。群馬の同胞は指紋を拒否したことで裁判に突入、罰金5千円の有罪判決になったと、57年1月15日付は報じている。
外登法との闘いはその後も長く続き、83年9月に始まった「外国人登録法指紋押捺撤廃100万人署名運動」の高揚を継続報道することで、約182万という目標達成の原動力になった。
ところが、政権政党の自民党が署名簿の受け取りを拒否したため、業を煮やした婦人会と青年会は、最後の手段として指紋を拒否すると集会で宣言したことを、84年10月6日付で報道した。
その後、法務省は「指紋は最初の1回のみ」という小手先の策でかわしたり、拒否者に再入国許可を与えないという挙に出た。民団は書籍『指紋拒否した人のために』を発刊し、順法闘争ぎりぎりの指紋押捺留保運動で応戦した。
在日最大の闘いについて、91年協議で指紋が全廃されるまでねばり強く報道した。
(2005.04.27 民団新聞)