掲載日 : [2005-04-27] 照会数 : 7861
<2500号特集>主要キャンペーンの歩み…2(05.04.27)
[ 「91年問題要求貫徹在日韓国人大会」のデモ行進=89年12月5日
] [ 129人の同胞犠牲者を悼む阪神大震災犠牲同胞合同慰霊祭=95年2月26日
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◆生活擁護から人権確立へ…主要キャンペーンの歩み
同胞の汗と涙を映した民団新聞
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歴史教科書問題の攻防…採択めぐり運動継続
韓国政府が日本政府に対して歴史教科書の歪曲是正を要求したことを、82年8月7日付で報じた。それ以降、民団、婦人会の抗議集会が開かれ、本国の独立記念館建立誠金にも積極的に呼応することになった。
87年9月12日付では、同胞自ら歴史を学ぼうと、まんが「韓国の歴史」を発行し、内外にアピールした。
その後、92年の中学社会科教科書検定で「近隣諸国条項」が反映して一段落すると思ったのもつかの間、いわゆる「つくる会」主導の歪曲教科書が登場して韓国や中国を巻き込んで物議をかもした。5月16日付には韓国政府の修正要求個所を全面で扱い、その後「つくる会」教科書の不採択要請活動も展開した。
また、歴史認識を著しく欠いた相次ぐ政治家の暴言をただすため、03年2月4日付で歴史認識を正す小冊子を発刊、各地方に配布するとともに、活用を訴えた。
05年の中学校の教科書検定について、4月13日付で韓国外相が教科書記述で日本側に抗議した。独島問題を含め、今後も予断を許さない攻防が紙面で展開されるのは必至である。
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2002サッカーW杯…総連同胞と共同参観
全世界の耳目が注目した02年のW杯。本紙は96年6月5日付の紙面で共催決定を報道したのに続き、98年のフランス大会で在日大韓体育会が企画したふれあい共同応援団を7月8日付で報道し、同胞社会の高揚を図った。
民団は「後援会」を発足させ、紙面は韓国サッカーの過去の実績や現時点での実力、開催スタジアムの規模など、読者の興味を引きつけた。
また、日本の開催自治体の首長と当該地方の民団団長、総領事らの鼎談企画を02年1月24日付から掲載することで韓国、日本、在日社会に共催、共生の意義を訴えた。
「後援会」の活動を広く知らせるために、日本サッカー協会関係者との対談やインタビューなども織り交ぜたほか、日本組織委員会に6400万円を伝達した。
W杯が開幕してからは、悲願の1勝を果たして快進撃が続く韓国チームの戦績を大きく伝え、各地で歓喜の声をあげる同胞の姿も取り上げた。
総連同胞との本国での共同参観も果たしたことで同胞和合に大きく踏み出したばかりか、大会成功自体にも民団が大きく寄与した。
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同胞の和合と社会貢献…阪神大震災での実践
91年に千葉県で行われた世界卓球選手権大会を契機に、在日同胞社会の和合にむけた民団と総連との組織的な交流を紙面で積極的に紹介した。
特に、史上初の南北首脳会談(00年6月13日〜15日)の成功を受け、各地で進む交流の現場を伝えてきた。大阪ハナマトゥリ、神戸まつりなどその数は多い。特筆すべきは、同胞最大密集地の大阪で進む交流が、サッカーのW杯共同参観へと続いたことである。
また、95年の阪神大震災では共生の考えを実践するため、いち早く被災者の救援活動に乗り出すとともに、紙面を通じて同胞愛の発揮と支援を訴えた。兵庫県庁に対しては、地域の総連同胞、日本人被災者にも等しく援助の手を差し伸べるよう託し、義援金の中から5000万円を伝達して社会貢献に一役買った。
この精神は96年10月、東京・代々木体育館で開かれた創団50周年事業にも生かされた。全国から集まった2万余人の同胞は、「共生・共創・共栄」の理念をアピールした。在日同胞60万人の将来と共生社会の実現のために尽力する民団の威信を大いに高めるために、カラー特集で大々的に報じた。
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91年問題と地方参政権…永住者の権利前面に
協定永住2代目以降の法的地位問題などを解決する「91年問題」は、内容が多岐にわたっているため、同胞の理解を促すために89年の8月8日付から10回にわたり連載「91をたたかう」をスタートさせた。その後、生活権確立のための拡大幹部会議や決起大会を随時掲載していった。
このような努力は、本国の青年商工人らによる署名運動に波及し、ついには韓国政府との共同歩調によって子々孫々までの特別永住を確保、さらに指紋押捺制度の廃止、退去強制の緩和などを含む法改正を獲得した。その成果は「91年問題」小冊子にまとめられ、全団員宅に配布した。
「91年問題」以降の焦眉の課題が、地方参政権運動である。94年に団体名称から「居留」をはずし、日本に永住する地域住民の権利として「地方参政権獲得運動」を提唱した。紙面では意見書採択の動きを逐一掲載するとともに、日本の政治家や各界各層の賛成意見を連載で取り上げることで広がりを持たせた。
また、98年の金大中大統領、03年の盧武鉉大統領の国会演説を全文掲載し、本国政府の関心の高さも内外に示した。
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88ソウル五輪大会支援…婦人会の募金も実り
「世界はソウルに、ソウルは世界へ」。
81年10月3日付の紙面でソウル開催決定の第一報を伝えるや、すぐさま婦人会が「1日10円募金」運動で呼応、民団も「後援会」を立ち上げることになった。
当時は教科書問題や外登法改正運動など、日本当局との激しい政治的な攻防が繰り広げられていたが、その一方で各地の日本の市民祭りにマスコットのホドリを繰り出すなどの精力的な五輪アピールぶりを報じた。
それらの宣伝も功を奏して五輪募金は免税措置になり、同胞の思いを込めた総額522億ウォンを伝達することができた。史上初の祖国でのオリンピック開催を喜ぶ帰化同胞の支援金も多く集まり、同胞の絆を温めあった。
また、2・3世青年の関心を高めるために、ソウルで青少年故郷訪問団を実施し、開・閉会式の予行演習を行うメーンスタジアムに足を踏み入れる機会を設けた。
婦人会の地道な募金は、固定・移動トイレなどに形を変えたことを、88年4月9日付で報じた。物心両面にわたる大車輪の活躍で史上初の本国での五輪成功に大きく寄与した。
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セマウルとセマウムと…環境改善、本国と連帯
農村の生活環境改善などを図る韓国のセマウル運動に賛同した民団は、72年12月に全国代表250人が参観団を構成し訪韓した。
73年3月にセマウム(新しい心)体制を敷き、60万のセマウム運動を提唱、一新した民団の姿勢を同月24日で報道した。
農村への募金活動では同胞過疎地の長野本部が全国最高の1800万円を拠出したことを紙面で高く評価するとともに、総額4億1千余万ウォンを超える「愛の誠金」を各集落に伝達、セマウル結縁には122村が参加したことも大々的に報じて本国との紐帯の深さを改めて示した。
また、75年4月、祖国の山野を緑化する植樹運動では、在日青年のセマウムシムキ奉仕団が朴正熙大統領とともに植樹に汗を流す写真が読者の目を引いた。
セマウル運動の研修制度はその後、77年10月の民団の組織学院導入につながった。また、当時のスローガン「ハミョン・テンダ(やればできる)」は、在日社会でもはやり言葉になった。
本国と一体化していた時代をほうふつさせる現象である。
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乱動事態と組織の整備…粘り強く収拾図った
71年6月に利敵行為と断定されたいわゆる「東湖録音事件」に始まる一連の反民団行為は、同年7月の東京本部直轄通告、8月の暴徒百数十人による東京本部襲撃へとエスカレートした。
民団は前例のないの全組織非常事態宣言を発し、収拾を図ろうとした。本紙は8月7日付で事件の全容を明らかにしたが、事態はさらに悪化していくことになった。
翌72年4月18日には暴徒70余人が中央3機関長を監禁し殴打する凶悪事態が発生。民団では組織整備委員会を発足させ、紙面は7月15日付で韓青・韓学同の傘下団体取り消しを公表した、同事件を糾弾する全国の声を反映させて事態の収拾に最大限努めた。
この事件を契機に、韓青・韓学同に代わり青年会、学生会が組織された。青年会東京本部の結成を72年10月28日付、中央本部の結成を77年3月5日付で報じた。
しかし、77年8月13日には結成されたばかりの青年会中央本部の会長ら主要メンバーと反国家代表者会議の韓青メンバーらが、上野・池之端で衝突する事件が発生。裁判で是非が争われることになった。
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本国への投資を加速…「漢江の奇跡」へ寄与
支援だけでなく、本国の復興ぶりも取りあげた。66年9月8日付では、第2次経済開発5カ年計画、10月18日付では外資導入法全文、また、11月8日付では、訪韓親善経済使節団の成果、11月18日付では第1次経済開発5カ年計画の成果を連続的に報道した。
これらは本国との一体感を示すと同時に、本国投資の機運を醸成する一助になった。なかでも在日韓国人商工会連合会は63年に第1次技術訓練生32人を在日同胞企業に招請して以来、本国投資の環境を整備した。74年に現在の在日韓国人本国投資協会の名称で組織化される下地をつくった。
今年で創立30周年を迎えた投資協会の特集を4月6日で報じ、その中で大規模な資本を本国に投資することで本国投資活動を活性化させ、「漢江の奇跡」に寄与した企業人の功績に改めてスポットを当てた。韓日協定が結ばれて以降、本国に進出した在日同胞企業人は、繊維・機械・電子・電気・金属などの製造分野をはじめとしてホテル・観光のようなサービス業まで次第に事業領域を拡大していくことで、輸出促進など祖国の経済発展に大きく寄与していった。
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本国の災害への義援金…同胞の痛み共有して
本国を襲ったさまざまな天災や人災とも言える惨事を、在日同胞は決して「対岸の火事」とは受け止めず、組織的な義援金活動に精力的に取り組んできた。
大々的な義援金活動の始まりは62年8月、全羅南道順天の水害被災からで、総額521万余円の伝達に対して災害対策本部から感謝状が届いたことを63年1月13日で報じた。
65年7月、40年ぶりに全国各地を襲った集中豪雨は、被災者33万人という桁外れのものだった。同月28日付から募金活動を呼びかけ、総額930万円を伝達することになった。
義援金は本国国内に限らず、ロス暴動で被害に見舞われた在米韓国人社会にも伝達しようと心を一つにした。
そのほか、最近の例では大邱の地下鉄火災や97年のIMF外貨危機を逐一報道することで本国同胞と痛みを共有し、支援活動に拍車をかけた。
特にIMF事態では、97年12月に記者会見を開き、一家庭あたり10万円の捻出を訴えた。10日付で報じたが、研修会場を本国に定めて外貨を落とすという形の支援も顕著になった。
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韓日国交正常化を推進権…ようやく永住申請 法的地位の貫徹ふまえ
「韓日会談を成功させ、法的地位を確保しよう」。64年12月18日付で、①永住権②強制退去③3処遇問題などについて民団の要望を報道した。
しかし、法的地位問題が進展しなかったため、協定調印を伝える65年7月18日付まで一貫して要求貫徹の論陣を張った。
同年12月28日付で両国が批准書を交わして条約協定が発効、国交が正常化した。協定発効にともない66年1月17日から始まった「永住権申請」は、個別申請を一切禁じ、支部を通じて一括申請すると1月18日付で報じた。
「申請すると韓国の徴兵制に組み込まれる」という総連の悪質な組織的妨害もあったが、国交正常化を期に総連からの民団加入者も増え続け、申請が全国で加速化していく様子を逐一数字をあげて公表した。
3年余の法的地位要求貫徹闘争が完全勝利した69年9月からは、文書・芸能宣伝・遊説などの班に分かれ、全国的な「促進啓蒙運動」を展開した。その模様を写真を多用して報じるとともに、読者の疑問に答えるために、法的地位問答集も掲載した。当時の新聞広告のキャッチフレーズは「わが家のしあわせ永住権から」であった。
最終的に有資格者56万人中36万5千人が申請したが、報道はその原動力の役割を十分に果たしたと言える。
(2005.04.27 民団新聞)