掲載日 : [2005-09-14] 照会数 : 5996
映画「カーテンコール」…在日の幕間芸人の哀歓
[ ほぼ40年前の下関の映画館でハッピ姿で呼び込みをする主人公 ]
[ 佐々部監督 ]
映画「カーテンコール」佐々部監督に聞く
今秋、東京のシネスイッチ銀座、新宿シネマミラノ、上野スタームービーをはじめ、全国でロードショー公開される「カーテンコール」(配給・コムストック)は、1960年代から70年代の下関を舞台に、在日韓国人の幕間芸人の男とその家族の絆を描いた作品。心の原風景を重ねたという佐々部清監督(47)に話を聞いた。
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時代の機微、丁寧に…貧しくとも明日信じる姿
「カーテンコール」は「チルソクの夏」と同様、佐々部清監督のオリジナルとして自ら脚本を手がけた作品。
主人公の住む長屋や長い階段の坂道など、映画に登場する景色や町並みには、下関市出身で商店街の裏の長屋で生まれ育ったという、佐々部監督のこの街に対する思いが込められている。
「下関は非常に誇り高き頑固な街」と語る。この場所で、幼いころから目の当たりにしてきたもう一つの原風景は、大人たちの在日韓国・朝鮮人に対する差別だった。
「物心がついたときには、道路の向こう側の地区に遊びに行ってはいけないとか言われる。野球チームに在日の友だちもいたし、子ども同士は何も溝はない。大人たちに言われて『あっ、そうなんだ』と思うけど、僕たちとどこがどう違うんだという違和感と理不尽さがずっとあった」
両作品では在日韓国・朝鮮人に対する差別を扱った。「それを外すと嘘っぽい映画になりそうな気がした」。だが差別されたことの辛さや、差別する日本人の優越感などを声高に語ってはいない。当時の佐々部少年の目線のまま、映画では平等に韓国人と日本人の姿を描き出し、自身の心の風景を素直に語った。
中学生のときに映画の世界に憧れた。18歳のとき、8㍉映画を撮り始めてから映画監督になることを決意する。
佐々部監督の映画作りで大切にしているのは家族愛、夫婦や親子、友情などの人のつながりだという。「自分自身が勇気や希望、夢をもらったから、そういう映画の送り手になりたい」
派手なアクションもCGも登場しない。だが人間の感情の機微を丁寧に描く佐々部映画は、ささやかな日常生活のなかにこそある大事なものを想起させる。
民団下関も撮影に協力
「カーテンコール」は大学の同期で、原案者の秋田光彦さん(大阪・應典院主幹)が高校時代に見たオルガン弾きの幕間芸人の記憶がもとになっている。20数年前に聞いた話をメモ書きにして引き出しにしまい、温めてきた。
作品の手応えを聞くと「これをやりたいと思ったことを作品にしているから100点。そしてエキストラは150点」だとすかさず答えた。地元の民団をはじめ、多くのボランティアたちが手弁当で撮影に協力し、主要な場面ではそれこそ出演者をはじめ、佐々部監督自身がボランティアの人々から熱気と勇気をもらったからだ。
映画の主題歌「いつでも夢を」は、佐々部監督自身のメッセージでもある。「うちは貧しかったけど、父母は明日この子たちにいいものを着せてやろうとか、いい物を食べさせてやろうと、明日に向かって頑張っていた。明日を夢みてもう一度カーテンを上げて、昭和を語り継ぐ映画にしたかった」
そして47歳の今も夢を持っていると話す佐々部監督は「特に若い人には夢を持ってほしい。夢さえないことは切ないことだから頑張ってほしい」とエールをおくる。
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家族の絆求め済州島へ
《あらすじ》東京の出版社に勤める香織は、ある事件をきっかけに九州のタウン誌に異動を命じられる。そこに届いた一通の葉書をもとに、取材のために訪れた映画館みなと劇場で、昭和の映画全盛の時代に幕間芸人として生きてきた男、安川修平とその家族について話を聞かされる。だが映画興行の斜陽とともに、家族3人の生活は次第に困窮していった。
この家族の数奇な運命に心動かされ、親子探しの旅に出た香織は、娘美里と出会い親子のその後を知ることになる。「いい子でいればすぐに迎えにくる」と美里に言い残し去っていった父。結局父が迎えにくることはなかった。
自分を捨てた父を許せない美里と接するうちに、香織も父との関係を見直す。香織は修平と美里を再会させるために済州島へ向かう。
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佐々部清 1958年山口県下関市生まれ。明治大学文学部演劇科卒。日本映画学校、フリー助監督を経て、02年「陽はまた昇る」(日刊スポーツ映画大賞石原裕次郎賞)で監督デビュー。03年「チルソクの夏」、04年「半落ち」(日本アカデミー賞最優秀作品賞)、05年「四日間の奇跡」。
(2005.09.14 民団新聞)