家族 仲間 歴史 慈しみ
「第1回MINDAN文化賞」(民団中央本部主催、中央民族教育委員会主管)は、論文・詩歌・写真・孝道エッセイの4部門に401人から604点の作品が寄せられた。関係者は、在日同胞文化の底上げと、在日問題に関する研究者や文化人を発掘する事業として、定着していく手応えを感じている。民団では4部門の受賞作品を網羅した冊子を発行したが、本欄では詩歌部門の最優秀賞3篇、写真部門の最優秀賞1点と優秀賞2点、孝道部門の駐日大使特別賞を紹介する。
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時調
最優秀賞
가족
東京韓国高2年(東京都) 李真宇
아버지 사랑해요 어머니 사랑해요
날마다 이 한마디 해야지 생각하곤
오늘도 쑥스러워서 웃음으로 때운다
家族(日本語訳)
父さん愛してます 母さん愛してます
毎日その一言 言わねばと思いながら
今日もきまり悪くて 笑ってごまかす
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三行詩
最優秀賞
十一月の薔薇
飲食業(東京都) 蔡春夫
一滴一滴が命につながる点滴
白いしずくを吐息が後を追う
凝縮された食に見つめる明日
紅花は朽ちて地面に落ちる
その命が異邦人のわたしに問う
一枝の青き棘の激しきを見よと
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自由詩(日本語)
最優秀賞
雨音
建国高2年(大阪市) 木下 誉元
ふってきた
途端、血の気がさっと引く
嫌だ、嫌だ、耳をふさぐ
どうしたの?
周りの心配の目が
私には非難の目に見える
傘を差したままじゃ 耳がふさげない
地面から傘の裏側から
ひんやりと冷気が襲ってくる
嫌だ、嫌だ、ウォークマンの音量を上げる
けど、雨音は消えない
誰もいないガランとした家
閑とした部屋に飛び込み鍵をかけた
独りぼっち 最大音量の音 枕に伏した頭
そう、ちょうどこんな大雨の夜に
母は家を出た
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写真部門
最優秀賞
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58年前のサッカー大会
団体役員(鳥取県)金泰鎮
優秀賞
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チョゴリが似合う一世
薬剤師(愛知県) 権載一
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親善歌謡楽団
画家(千葉県) 林忠赫
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孝道部門 駐日大使特別賞
在日の高齢者問題と孝道
大学准教授(栃木県) 金升子
在日は恵まれ豊かに育った者より、貧しい家庭で苦難の多い両親に育てられた者が少なくない。そんな中でも、良い生活が可能になれば親孝行したいと誰もが熱望する。
しかし、成人し家庭を持つと子供の教育や家族の生活が優先され、老親は冷遇される。老親に介護が必要な事態になると、自分の生活基盤が脆く家族を支えるのがやっとの者は、親の生活を支え共に暮らす事も出来ず悩む。記憶の中に自分を育てた親の苦難の人生が張り付いているだけに苦しく、悲しく切ない。
同居しても、認知症がある老親の介護に疲れ果て、仕事が出来ずに生活苦で共倒れになる。その為に親に暴言を吐き、自己嫌悪を感じて鬱的になる者もいる。孝行が出来ないことで兄弟がもめる。私は看護師経験があり、医療福祉系の大学で教員をしているので、同胞の友人から病身の親の相談をされる事が多い。 私の初介護体験は、高3で母・尹必女が死去した時である。母は癌の末期で、死ぬ前の1週間を子供と過ごす為にT県の国立病院から帰宅した。家には高3の私、小学校低学年の妹2人、4歳の誕生日を迎えたばかりの弟がいた。
母に抱かれながら弟は、1週間後の死別も知らず無邪気に笑った。私は高校を休み看病をした。父との不和で兄と姉は家には寄りつかなかった為、ついに生前の母に会えなかった。意識がある時に母は「2人に会いたい」。特に兄に「会いたい!」と哀願したが父は聞き入れなかった。兄は通夜には間に合い葬儀には出席できたが、姉は葬儀も終わり火葬され骨箱の母に1週間後に会えただけである。
その兄と姉は韓国生まれであるが、日本で暮らしていた父と家族が一緒に生活するようになったのは昭和20年に私が神戸で生まれた時からである。その後は、北関東の村に移転した。私は自分の存在を学校の悪童が投げる「チョウセンジン」という罵声と投げられた石で気付かされた。石が顔に当たり血を流して帰ると母は「アイゴ! 女の子が顔に傷をつけられて!」と嘆いた。
当時、住んだ那須郡狩野村は、家の左手に小川が流れ、裏手には那須山脈が見える景勝の地で、父は稲作と養豚を始めた。母は腰骨が折れるほど働き、43歳の若さで死んだ。血と汗と涙の苦労の人生であった。特に兄が大学に在学中は、赤貧と不遇の時代と重なり暗い内に起床し脱穀した米を売って学費とする為、私も未明に起きそれを手伝い、父母と明けの明星を何度も見た。ドラマでチャングムが鞭で母親に叩かれる場面を見た時、私も幼い頃、鞭で母に叩かれたのを思い出した。あれは愛の鞭であった。足の痛みが懐かしく、孝行が十分にできなかった母を思い心が痛んだ。
父の金正玉は、私がJ医大付属病院で看護師長の時、肺癌の術後に肺炎で亡くなった。遺言通り遺体を韓国に運んだ時、釜山で航空便の貨物室から降ろされるのを待ちながら、孝道を果たすべき親が喪失したことを実感した。病名を偽って手術を受けさせたことも悔やまれた。死後に気付いたが、父は病名も予後も承知していたようである。韓国の資産は生活能力のない妹がすべて相続出来るよう処理をした上、自分の山墓も用意し、事前に葬儀の仕方にも指示があった。両親の最期の処し方は私も見習いたい。
ある日、勤務先であるJ医大の治験薬事務室で来院予定患者の名前を確認していると、救急部から電話が来た。「患者の処置をしたいのだが、言葉が通じないので通訳をしてほしい」
患者は女性で、刃物による刺し傷と思われる腹部から多量の出血が見られる。事件なのか事故なのか不明な為、警官も待機している。その女性は「アイゴ! アイゴ!」と泣き叫ぶばかりで周囲の日本語の質問には応えない。医師からは「とりあえず処置するので、説明し同意を得てもらいたい」と促された。
私は女性の手を握り、韓国語で「どうしたのですか? お腹の傷は誰かに刺されたのですか?それとも何か事件に巻き込まれたのですか? 今から医師が処置をしますよ」と質問し説明をした。「アイゴ!」と泣き叫ぶ声が静まり、女性が話し始めた。
「誰かに刺されたのではない。自殺しようとした。日本に来て店を借りてエステの仕事を始めたが商売がうまくいかない。その上、息子が軍隊に入隊する連絡が来た。その前に会いたいと思い息子のビザを申請したが通らず、悲しくてどうにでもなれと自棄を起こした」と語った。
女性の話を医師や警官に説明し、腹部の刺し傷を見るとかなり深い。医師は肝臓に近い場所まで達していると処置しながら話した。母が生きていたら兄の為に激情に駆られて、同じことをしただろうか? 彼女の手を握り締め、母に孝行出来なかった分、この人の役に立てるならば幸せだと感じた。
かつて、朝鮮人と虐められた私は通信教育で大学を卒業し、その後は大学院で学び「先生は外国人なのよね。かっこ良い!」と学生から言われる。本名の使用を厳命し続けた父は、金海金氏の私が在日の立場で大学教師をしているのをどう思っているだろうか。
私は最近、生命は父母からの借り物であると感じている。40代で死亡した母よりも20年生き延び還暦を迎えた。70代で死亡した父の年には、あと10何年ある。父母に親孝行が出来なかったので、同胞や両親と同じ世代の高齢者の為に社会的な発言や支援をしたい。あの世で父母に対面し生命を返す時は、これが両親への孝道になるのではないかと考えている。
在日の高齢者の介護や無年金問題では、孝道を果たせず悩み苦しむ多くの無名の同胞とその家族がいる。民団新聞によれば、専門家による『相談センター』が稼働しているが、資産の管理等の相談が主で、前述の問題で悩む人は何処の誰にどのように相談すれば良いのだろうか?
資力のある人、知識・技術のある人は解決策を講じられる。不遇な在日高齢者の問題を他人ごとと傍観せず、皆で解決策を検討すべきではないだろうか? 発言の場も待たず日々の生活に追われ、孝道問題に悩む無力な方々の為に代弁したい。
(2008.2.6 民団新聞)