掲載日 : [2008-02-28] 照会数 : 7624
人間・李明博 第17代大統領への軌跡(上)
[ 現代建設会長時代の李明博氏。右は鄭周永名誉会長 ]
[ 6・3事態主導で起訴されて(中央) ]
「思師は貧困とオモニ」
学生運動で抜群の指導力
解放後1945年11月、大阪に生まれた4歳児が家族7人とともに下関から帰国した。だが、帰国船が対馬沖で座礁、全員無事だったものの当面の生活費に充てるなけなしの財産を失った。その後の人生は貧しい韓国の、その最底辺で喘ぎ続けるものだった。しかし、最大手企業の最高経営者からソウル市長を経て韓国第17代大統領にまで登りつめた。人間・李明博の軌跡とは。
▼「民主化と産業化に奇跡的な成功を収めた国が、沈滞と混乱に陥っている。わが大韓民国を再び立て直さなければならない。新たな躍進の土台をつくろう。貧しい人が最高経営者になることのできる成就の国、小さな川からでも龍が飛翔するチャンスの国、この誇らしい大韓民国に、汗を流して仕事をすれば誰もが成功できる『国民成功時代』を開こう」(07・10・10=国民成功時代出帆式)。
どぶ川から飛翔した龍
これはまさに、自身の人生経験から紡ぎ出された言葉に違いない。この言葉を援用すれば、人間・李明博の奇跡は小川ならぬ「どぶ川から飛翔した龍」に例えられようか。コリアン・ドリームの体現者と呼ぶだけでは物足りないほどの、波乱万丈の奇跡がある。
物心がついてからは慶北・浦項の貧民街で、栄養失調と過労が人生の友であり、夜間商業高校、高麗大経営大学を経て、25歳で現代建設に入社するまでその状態が続いた。生地売りから始め、米軍部隊のゴミ集め、クッカパン(菊花模様の焼き型で焼いた小麦粉のパン)、ポンティギ(ポン菓子)、マッチ売り、リヤカーでの果物売り、清掃員など、やらなかった商売はないほどだという。
▼「どこに行っても、商売具合に関心が行く。店に入れば、商品の品質はどうか、値段はどうか以前に、『ここは商いになっているか』を本能的に考える。政府にとって重要なのは、強者に干渉することより、弱者をどう助けるかだ」(06・8・10=清州農水産物市場商人との懇談会)。
李一家の主食は長い間、酒粕のなかでも最も安く品質の悪いもので、李少年はいつも赤い顔をしていた。後に、「会社生活をする間、どんな酒席でも誰より酒が強かったのは、幼い頃の訓練のせいではないか。貧しさが私に残した一つの財産だと思う」と語ったことがある。
軍隊からもはねられた
極貧の李家のなかでも明博少年は、学業優秀だった兄たちの学費を工面するためにも、犠牲にならざるを得なかった。李家は背の高い家系でアボジをはじめ長兄・次兄とも180㌢もあり、バランスのとれた身体なのに、自分だけが173㌢で足だけが長いのは「成長期の栄養不足のせいでは」と述べているほどだ。ちみに次兄はソウル大(商科)に進み、現在はハンナラ党国会議員で、訪日特使を務めるなど李大統領の最側近、李相得国会副議長である。
人間・李明博には容姿や健康に関するコンプレックスもついて回った。生活苦から脱出しようと高麗大2年の時、衣食住が保障される軍隊に志願入隊しようとしたが、論山訓練所での身体検査で軍医から「気管支拡張症」と判断され、こう言われた。「この病は根本的な治癒が不可能だ。過労すれば熱が酷くなり、訓練を受けることができない。蓄膿症も悪性だ。そんな体で志願するとは、軍を療養所だと思っているのか」
しかし、苦労は違った財産も残した。李大統領はよく、「自分の恩師は貧困とオモニ」だと語ってきた。貧困とその中でも逞しく生きたオモニがシナジーとなり、彼を鍛えたのは間違いないだろう。現在でも睡眠時間は4時間だが、それはキリスト教信者のオモニが毎朝4時に、明博少年と祈祷を捧げる習慣から身についた。
しかも、安寧と幸福を願うその祈祷はまず近隣の人々、親戚と続き、最後に家族になるのだが、自分のことは末尾に付け足されるだけだった。明博少年はこれが苦痛だったが、もっと辛かったのは、近隣や親戚に祭事があると必ず手伝いに行かされ、そしてひと言必ず、「食べ物も金銭も一切もらってはならない」と念を押されることだった。
貧しくともプライドを持ち、我が事より周囲に気を配る、そういう生き方をしたい。李少年にはこの時、オモニのそうした信条が理解できなかった。すきっ腹を抱えて料理を運ぶ惨めさに人とは目を合わせられず、行ってはあいさつもせず手伝い、あいさつもせず黙って帰ってくるほかなかったという。
そうかと思えば、一張羅の制服を着て、垢じみた顔に汗を流しながら屋台を引き、女子高生の嘲笑を浴びた屈辱。果物を積んだリヤカーが車にぶつけられ、商売道具が台なしになった時、逆に怒鳴られても黙っているしかなかった恥辱。それでも商売をしろと尻を叩いたのがオモニだった。
これらがいつしか、「本能的自尊心」「屈服することを許さない本能」に昇華し、如何なる強敵にも屈することなく、自身と韓国の活路を開く糧にまでなった。その最大の転機、そして今なお李大統領の原点になっているのが、高麗大経営大学の学生会長時代であり、6・3闘争を頂点とする韓日会談反対運動である。
屈辱バネに自尊心養う
地方の夜間商高を出て、市場の清掃員をしながら大学に通う身に、友人も人脈もあるわけがない。勝算がないまま会長選挙に出馬したのは、内向的で卑屈になりやすい自分から思い切って脱却するためだったという。ところが僅差で当選すると、抜群の指導力を発揮して6・3闘争を組織、全国指名手配され、6カ月間の服役を余儀なくされた。これは人間・李明博が勇名をはせる最初の出来事だった。
▼「夜間商業高校を卒業するとすぐソウルに上り、貧民街で1日働いて1日を食いつなぐ生活をした。いくら少なくとも、条件が如何に悪くてもいい。月給のもらえる仕事が欲しいというのが夢だった」(06・8・8=自然農業研究所農民懇談会で)。
大学卒業生でも就職口がない時代、学生闘士にはなおさらだった。唯一脈があった現代建設にも青瓦台から圧力がかかった。明博青年は朴正煕大統領に「一個人が自分の力で生きようとするのを国家が妨害すれば、国家はその個人に永遠の負債を負うことになる」としたためた手紙を送った。
その後のことは詳しく述べるまでもあるまい。「社長のように考え、課長のように走れ」をモットーに、彼が65年に入社した時には98人だった従業員が、92年に辞職する時には16万8000人となり、世界的な企業に成長したのだ。現代建設で77年に33歳で社長、88年から会長を務めたほか、現代グループ6社の会長職を担った。あまりに早い異例の出世に、「鄭周永会長の弱みを握っている」「朴大統領の後ろ盾がある」などと陰口を叩かれ、「リトル朴(正煕)」と称されたこともある。
中傷に対して彼は当時から、「弁明も解明もしない。時が経てばすべてが正しく理解されるとの確信がある」という自己原則を貫いてきた。大統領選挙戦のネガティブキャンペーンにも、この原則で対応したことはよく知られている。これも「屈服を許さない本能」の一つの表れであろう。この真骨頂は、順風満帆に見えた現代建設トップの時代に示される。
(2008.2.27 民団新聞)