掲載日 : [2008-03-12] 照会数 : 4487
人間・李明博 第17代大統領への軌跡(下)
[ 妻の金潤玉さんと孫を抱いてくつろぐ李明博大統領 ]
例を見ぬCEO(最高経営者)型
国際感覚も世界相手に磨く
貧しかった韓国の、その最底辺での克己生活は、「本能的な自尊心」「屈服することを許さない本能」をつくり上げた。これこそが人間・李明博に、第17代大統領への道を敷き、韓国の活路を切り開く時代的な使命を担わせることになった。
恫喝に屈せぬ本能的自尊心
「屈服することを許さない本能」の典型的な表れが、10・26朴大統領射殺事件後に台頭した新軍部との二つの対決だろう。一つは金泳三氏、金大中氏、金鍾泌氏の「3金時代」とも言われた時期、KCIAに連行された時だ。現代が3金氏に政治資金を提供していると恫喝され、まともな体でここを出たければそれを認め捺印しろと、長時間にわたって脅迫されたが、「そのような事実はない。ないものはない」と突っぱね通した。
もう一つは、国家保衛委員会に呼び出され、「重化学工業投資調整」なる経済政策への協力を強制された時だ。企業間の重複投資は国力を浪費するとの理由で、建設業主体の現代は、発電設備に特化するよう執拗な圧力がかかった。李明博社長は、特化するとすれば自動車を選択するとする一方、効率のために競争を排除すれば一時的な成果は上がっても、やがて競争力を失って韓国経済は自滅すると断固反対し、捺印を拒否した。
埒が明かないと見た保衛委の将校たちは、国家防衛の先頭に立つ自分たちが貧しい生活をしているのに、李社長は立派な家でぬくぬくと生活している、と搦め手から攻めてきた。これに李社長は「あなたたちが国費で陸軍士官学校に在籍する間、私は苦学の連続だった。あなたたちは戦争をしていないが、私たちは世界を相手に血みどろの戦いをし、国の発展を支えてきた」と反論している。
実兄の李相得国会副議長は、「体は私の方が立派だが、弟の肝っ玉は普通ではない」と評している。まさに「本能的な自尊心」なのだ。しかし、鄭周永会長に事態を報告する席で、李社長の目からは赤い滴が流れ落ちていた。文学的な修辞にのみ存在すると思っていた血涙なるものを、この時初めて見たという。
李明博氏は92年、27年間の心血を注いだ現代建設を退社する。この間、多くを学び多くの精神的資産を蓄積した。現代のトップとして、あるいは韓国経済界のリーダー・鄭会長の懐刀として、熱砂の砂漠から凍土のシベリアまで世界を飛び回って得た国際感覚、各国首脳の懐に飛び込んで大規模工事を受注するなど交渉能力はずば抜けていた。
ソ連大統領と難交渉を成立
中でも特筆すべきは国交正常化以前の89年、ゴルバチョフ大統領と直接会い、ソ連との間に経済協力の公式窓口を設立する公式文書を締結し、韓国資本の北方進出の道を開いたことだ。これは長年の敵性国家・ソ連と交わした最初の公式文書であった。ゴルバチョフ大統領とエリツィン首相の対立に巻き込まれ、危うく頓挫しそうになったものを、李社長の決断力とウオツカを飲み交わしながらの粘り強い交渉で実現にこぎつけたのだ。
李明博氏は世界を飛び回る過程で、世界各国の政治が統治型から経営型に大きく変化していることを実感してきた。政界に身を転じるに当たって、「企業経営であれ国家経営であれ、経営の本質は同じではないのか」と語っている。
▼「新しい国家事業を提示して付加価値を創出する政府をつくらねばならない。盲目的な反対や賛成ではなく、競合国家に対する優位を確保し、国家の総売り上げと純利益を増やす戦略を示さねばならない。放漫で浪費的かつ威圧的な政府組織と公職者に代わり、生産的かつ効率的で顧客中心的な政府組織と公職者を創出しなければならない」(95・1出版=李明博著『神話はない』)。
▼「金泳三大統領が退任する時、国家負債は53兆ウォンだった。その後2つの政権の10年間に、6倍の300兆ウォンを超えた」(07・1・8=民主同志会新年会)
ソウルの借財3兆ウオンを返済
李明博氏は92年に第14代国会議員に当選、02年にはソウル市長に当選する。06年6月にソウル市長を退任する当日まで、多くの仕事をこなした。清渓川の復元、大衆交通体系の整備は特に有名だ。これは先端IT技術を集約し、ハードとソフトをうまく結合させた成果であり、電子政府・電子交通体系として世界各都市への輸出産業になっているほど。
意外と知られていないのは、新たな業務を開発してより多くの仕事をする一方、予算は削減してソウル市の負債を3兆ウォンほど減らしたことだ。これは韓国の歴史上初めてのことである。そうかと思えば、開発すれば4兆ウォン近い収益がソウル市に入る漢江縁の35万坪に、市民の憩いの場として「ソウルの森」を造成している。
▼「4兆ウォンは大変大きな金額だが一時的なものであり、緑の森が茂れば30年、40年、100年後の子孫たちに、金銭に換算することのできない大きな資産になると考えた。どうすれば韓半島全体に緑の森が茂り、清らかな川が流れるグリーン・コリアをつくることができるか。京都議定書は韓国でも2013年に発効する。北韓で植樹運動をし、北韓を緑化することは、北を助ける一方的な運動ではなく、統一後の大韓民国のためにも必要だと考えている(07・9・28=国民共感お茶飲み大会)
韓半島大運河構想も政界転身時から温めていた。1996年7月の第15代国会本会議で運河は未来の3万㌦、4万㌦所得の経済に発展するためだけでなく、国運を隆盛させる契機となるものであり、如何なる政権であろうとも成し遂げねばならないと、発表している。
▼「朴正煕元大統領は京釜高速道路を建設しながら、建設部長官に『運河建設を検討せよ』と指示した文書を私は探し出した。朴大統領が生きていれば、洛東江も運河になり、漢江の奇跡だけでなく洛東江の奇跡も生んだであろう。私は洛東江の奇跡をつくる。この奇跡は慶尚北道の軌跡であるだけでなく、大韓民国の第二の経済躍進につながるだろう」(07・11・12=国民成功希望大会大邱・慶北必勝決議大会)。
権力で統治の時代は過ぎた
李明博大統領はこの間、「私は韓国の権力を握ろうとするのではない。私は韓国の経営者になりたいのだ。権力で統治する時代は過ぎた。分裂と葛藤で政治目的を遂げる時代も終わらせねばならない。理念も超えねばならない。われわれの目的は、国民を幸福にすることだ」と一貫して訴えてきた。まさに、世界でも例を見ないCEO型の大統領である。
李大統領は4歳まで大阪で過ごし、46年11月に帰国、浦項の貧民街を振り出しに苦節の日々を送り、「どぶ川から飛翔した龍」となった。家計のために高校進学を断固反対するオモニを、「中卒では将来がない」と説得してくれた中学校の恩師。栄養失調の高校時代、親の目を盗んで毎日のように産みたての卵をくれた友人。大学受験用の参考書を格安で提供してくれた清渓川の古本屋の主。
高麗大学受験は、実は「高卒」より「大学中退」の方が有利だと考えたからだった。苦学をしても大学生活は無理だと諦めていたのだ。ところが、一学期でも通わなければ「中退」にはならないことを知る。ここでも、大学に通えるようにとカンパをくれ、清掃員の仕事を与えてくれた梨泰院市場の人たちがいた。また、気管支拡張症で軍入隊を拒否され、治療のために入院した病院でも親身な世話を受けた。
李大統領も、実に多くの人たちに支えられ、コリアン・ドリームを体現した。自分のように、汗を流して努力する人には支援を惜しまない信念が生まれた。自らが先頭に立って多くの努力家を支え、「国民大成功時代」を率いていく。
(2008.3.12 民団新聞)