掲載日 : [2008-04-02] 照会数 : 6877
フラッシュ同胞企業人(20) カバンづくり一筋に
[ 1940年済州道涯月面生まれ。涯月商業高校卒業後、61年に来日。ニナリッチなどのブランドバッグを製造。民団東京荒川支部支団長。3男2女孫3人。 ]
自力でニナリッチ製造
クロイワの玄祥社長
パリ伝統のエレガントで高級感あふれる「ニナリッチ」。女性に人気のブランドだ。数あるニナリッチ商品のうち、バッグ類を製造し、親会社であるカバンメーカー松崎を通じて全国の百貨店に卸している。
日本で2社だけ
「ニナリッチとアクアスキュタムのキャリーバッグなどを製造しているが、これを作れるのは、日本国内で当社ともう1社だけ」と胸を張る。
全日空のビジネス用ボストン・ショルダーをはじめ、手作りカバンの種類は100種類を数えるが、この2ブランド品だけで年間約6000個を出荷する。超軽量でデザインに優れ、使いやすいと評判だ。昨年の全体売上額は1億8000万円。社員は13人。
「壊れても修理が可能なので、安心して使うことができる。10年ほど前に作ったカバンが修理に来たりする。長く使うほどに愛着が出るようだ」。「縁起の良い、運の良いカバン」と、大事にする顧客の姿を見るにつけ、「もっといいカバンを作らねば」という気持ちになる。
済州道の涯月商業高校を卒業後、1961年に姉を頼って来日。同胞密集地域である東京・荒川のカバン製造の見習い職人となった。68年、結婚を契機に自立。カバン縫いの工賃で生計を立てた。
「学生用のボストンバッグやカメラケースなど、寝る時間を惜しみながら何でもやった」
70年代、急激な円高が進み、輸出業者にとって大打撃となった。「とにかく、仕事がなくなり、一番つらい時だった」
一時期、安い中国製品が大量に出回ったが、十数年前から、百貨店で国産製品が売れだした。「消費者が、安いけど粗悪な商品に飽きた。意識が変わり始め、良い商品を求め出したのは幸いだった」と振り返る。
栃木県に1000坪の敷地を購入していた。親会社から技術の良さを見込まれ、「その土地に工場を設け、ブランド品に挑戦してみては」と提案された。
「当初は苦労の連続。研究に研究を重ねた末、ブランドの名に恥じないものができた」
ニナリッチとの年間契約でロイヤルティーを毎年、支払う。契約条件に、▽量販店には売らない▽百貨店だけに供給▽海外で生産したものを日本に持ちこまない−−との条項がある。「このおかげで、安定した生産供給が可能」。一流でなければ通用しないので、品質維持には神経を使う。
旺盛な研究精神
人一倍、研究熱心。あらゆるものにチャレンジする。「毎晩、他社のカバンを裁断しては、見よう見まねで作った」。取っ手はカバンの核心部分で、これだけを作る専門家がいるほどだ。「自分にもできないわけがない」と持ち前の負けん気で、試行錯誤の末に自力で作れるようになった。
10年ほど前、韓国から来た職人が多いときで30人を数えた。「韓国の職人はとても腕が良く、速く、きれいに仕上げる。残念なことにオーバーステイのため、退去強制となった。そのため、業界は技術者が非常に不足し、メーカーも悲鳴を上げている。カバン業界全体の問題だ。なんとか正規に来日できるよう、政治的に解決してほしい」と訴える。
廃業する同業者が多い中で、「なんとか続けていき、日本一のカバン作りをめざしたい」と意欲旺盛だ。
(2008.4.2 民団新聞)