掲載日 : [2008-04-25] 照会数 : 5942
韓国食育の歴史<4> 救荒食品
飢餓対策から日常食に
救荒とは凶年や天災地変による飢餓の苦しみから救済することである。農業が基本生業である韓国では水害、干害などの被害で飢餓が慢性化し、民は飢えに苦しんだ。緊急時に国が管理し、貧しい人や罹災者を救う賑恤庁の備蓄だけでは、苦しむ人々を満足させることは容易ではなかった。
朝廷では周辺の野生草木を、中国古来の薬物学とする本草学的立場から利用する指導を行い、救恤策の一つとして、世宗大王は「救荒辟穀方」を発行。また救荒庁を常設して、代用食となる山草木の名前を収録した「救荒本草」を作成し、民に配布して啓蒙活動を実施した。
明宗時代に至っては、王の命を受けて「救荒辟穀方」のなかから重要な部分を抜粋し、ハングル訳で「救荒撮要」を刊行した。このような努力はその後18世紀後半まで続き、気力の尽き果てた人々の治療法から利用できる食品の種類、製造法などについても具体的に整理した「山林経済」や実学者、茶山・丁若の「牧民心書」などがある。
韓国に「犬の餌に団栗(ドングリ)」という諺がある。嫌われて孤立した人を指す。犬も食べ残すこのドングリを、世宗大王はすでに救荒食物のなかで最も上のものとし、ドングリの栽培を勧奨した。凶年を救済する方法として、王自身がドングリを賑恤したという記録もある。
渋みの強いドングリは救荒食品として脚光を浴び、現在では自然食品、低カロリー食品として親しまれている。ドングリの渋皮を除き、沈んだ澱をゼリー状に固めたのがムクになる。
韓国では落ち葉のころの時節食として親しまれている。飢餓対策として開発された救荒食品は、次第に日常食に転換され食品の多様化をもたらし、今日の食生活の幅を広げるまでになった。
救荒を目的に、日本から入ってきた食品に甘藷(サツマイモ)がある。21代国王の英租時代の1764年、第11回朝鮮通信使の正史、趙 が対馬島から種芋を釜山鎮に持ち帰ったのが始まりで、その後、済州道、釜山で栽培に成功。全国的に収穫が可能になるまで10年ほどかかり、救荒食や日常食にも用いられた。
趙 の書いた「海槎日記」によると、対馬地方では「甘藷または、孝行麻と呼ばれていた」とある。倭音は「古貴為麻(コキィマ)」である。対馬島では飢餓のときに助けになる孝行物の芋という意味から孝行芋と呼んでいた。趙 は孝行芋をコキィマを書きとめ、それが後にコグマになったと伝えられている。
(2008.4.30 民団新聞)